見えない罰
てつ
第1話 幸福の輪郭
俺は、自分が壊れているとは思っていなかった。
朝、コーヒーの香りで目覚める。
ダイニングに降りると、美幸は朝食の準備中だ。
学生結婚してから二十年近く経つというのに、その習慣は変わらない。
「おはよう」
そう声をかけると、彼女は穏やかに微笑む。
高校一年生になった娘のルナ。
セーラー服にすこしばかりメイクしているようだが、案外似合っている。
スマホを片手にトーストをかじりながら「おはよ」と短いあいさつ。
それだけの光景が、俺には十分すぎるほど“成功の証”だった。
IT企業の社長。業績は右肩上がり。社員も増え、メディアに取り上げられることも。家庭は円満。美しい妻と、手がかからず、進学校に通う娘。
どこに問題がある?
俺はずっと、そう思ってきた。
秘書・絵美里との関係も、その延長線上にあった。
優秀で、判断が早く余計な感情を持ち込まない。
俺が疲れているときは察して距離を詰め、忙しいときは一歩下がる。
その加減が完璧だった。
恋愛ではなく効率の良い安らぎであると、少なくとも俺は、そう考えていた。
罪悪感がなかったわけじゃない。
だがそれは、会議の合間に感じる軽い疲労のようだ。
少し目を閉じれば、すぐに消えるもの。
「社長、次の予定ですが」
社長室で彼女がそう言うたび、俺は“現実”に戻る。
家庭と会社、その両方を維持するための、ほんの小さな抜け道。
それが絵美里だった。
——少なくとも、あの日までは。
その日は、取引先との打ち合わせが予定より早く終わった。
「駅まで少し、歩きませんか」
絵美里がそう言ったのは、軽い気まぐれだったはずだ。そう思った。
駅前の通りを並んで歩く。距離は近いが、触れない。
周囲から見れば、仕事仲間か、せいぜい仲のいい恋人程度だろう。
俺は、人目を気にしていなかった。
なぜなら——見られて困る理由が、頭の中から完全に脱落していたから。
ふと、視線を感じた。
人混みの向こう。セーラー服姿の女子高生が、こちらを見ている。
一瞬、誰だかわからなかった。
次の瞬間、胸の奥が冷えた。
娘のルナだ。
ルナは、立ち止まったまま、こちらを見ていた。
友人たちが何か話しかけているが、彼女は答えない。
ただ、俺と絵美里を見つめている。冷ややかな、軽蔑するような目で。
その友人たちも。
時間が、歪んだ。
声をかけるべきだったのかもしれない、そう感じた。直感で。
手を上げて、なんでも話しかければ良かったんだ。
言い訳でも、冗談でも、何でも。
だが俺は——何もしなかったし何もできなかった。
する必要はないと思った。話せばルナは分ってくれると・・・
絵美里が「どうしました?」と小さく聞いたが、
俺は「いや」とだけ答え、振り返らず歩き続けた。背中に視線を感じながら。
その判断が、どれほど致命的だったかを、俺はまだ理解していなかった。
その夜、家は静かすぎた。
ルナは自室にこもり、美幸は必要最低限の会話しかしない。
「疲れてるのかい?」
そう聞くと、彼女は一瞬だけこちらを見て、
「ええ、少し」と答えた。
美幸の目に、俺は見覚えのない光を見た気がした。
だが、それを深く考えることはなかった。
俺は、自分がまだ“守られている側”だと信じていた。
家庭も、仕事も、信頼も。
すべては、これまで通り順調に変わらず続くと。
——その思い込みこそが、最大の過ちだった。
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