第3章:迷い込んだ「真っ黒な毛玉」とモップの嫉妬

 お昼休憩の時間は、私にとって一日のうちで最も穏やかなひとときだ。

 さっきの森の賢者さんからいただいたばかりの茶葉を淹れると、春の芽吹きを凝縮したような、瑞々しくも芳醇な香りが湯気と共に立ち上る。

 木漏れ日が差し込むテーブルで、モップと一緒に一息つこうとした、その時だった。


 ガリッ、ガリガリッ……。


 裏口の木製ドアを、何か弱々しい爪のようなものが引っ掻く音が響いた。

 モップが即座に反応し、伏せていた大きな体を跳ねるように起こす。その銀色の毛が、警戒のために微かに逆立った。


「あら、誰かしら。お客様なら表からいらっしゃるはずだけれど」


 私が席を立ち、ドアを開けると、そこには生き物かどうかも判別できない「真っ黒な塊」が転がっていた。


 泥と油、そして何より不気味な、どす黒い霧のようなものがその塊を包み込んでいる。塊が触れている地面の草が、見る間に茶色く変色し、崩れ落ちていくのが見えた。


「グルゥ……!」


 モップがかつてないほど鋭い唸り声を上げ、私の前に割って入る。

 彼の本能が告げているのだ。それが触れるだけで命を刈り取る「高密度の呪詛」……死の呪いそのものであることを。


 だけれど、私の目に映ったのは、別の真実だった。


「まあ、まあ! なんて格好なの。全身汚れだらけじゃない。これじゃあ息をするのも苦しいわよね」


「……わふっ、わうっ!(ちょ、ちょっと待て、危ないって言ってるだろ!)」


 慌てて私の服を咥えて引き止めようとするモップを、私は優しく宥めた。


「モップ、唸らないの。この子、きっと助けを求めてここまで来たのよ。……ほら、そんなに毛を逆立てないで。あなただって、初めて会った時はこれくらい真っ黒だったんだから」


「くぅ……(むぅ)」


 モップは図星を突かれたように耳を伏せ、情けない声を漏らした。

 だけれど、彼が心配そうに私を見つめる瞳は、嫉妬と不安に揺れている。

 まるで、新しく拾われてきた子犬を警戒する先住犬そのものだ。


(モップったら、自分がお風呂に入れてもらった時の特別感を、誰かに奪われるのが怖いのね。可愛いんだから。だけれど、この汚れは一刻を争うわ)


 私は迷わず、その真っ黒な塊を抱き上げた。

 手袋越しでも伝わってくる、じっとりとした嫌な粘り気と、氷のように冷たい呪いの感触。


 これは、私みたいに汚れ耐性が無い普通の人なら、触れた瞬間に心臓が止まってしまうかもしれない。


「モップ、お手伝いして。この子を優しく押さえててちょうだい。最高に泡立ちのいい石鹸で、ピカピカにしてあげるんだから!」


「わふぅ……」


 モップは大きなため息をつくように鼻息を漏らすと、渋々と私の後を追って、お風呂場へと足を進めた。




 お風呂場は、たちまちのうちに不穏な熱気に包まれた。

 真っ白なタイルの上に置かれた「黒い塊」が、激しく身をよじって暴れ始める。


「きゅうっ、ぎぃぃい!」


 塊から飛び散った黒い飛沫が、タイルの床に触れた瞬間。

 チリチリと嫌な音を立てて、私の自慢のタイルが腐食し始めたではないか。


「ああっ、私の大事なタイルが! なんて強情な油汚れ……なのよ!」


 私は悲鳴を上げながら、即座に強力な洗浄魔法を放った。

 右手に持ったシャワーからは、中和成分を限界まで高めた聖なるお湯が溢れ出す。

 左手では、石鹸を素早く泡立て、弾力のある濃密な泡の山を作り上げた。


「モップ、逃げないように押さえてて!」


「わふんっ!」


 モップが巨大な前足を伸ばし、逃げ惑う塊を「そっ」と、逃げ場を塞ぐようにして床に固定する。

 まるでやんちゃな弟をあやす兄のようだ。


「頑固な汚れも、たっぷりのお湯と石鹸には勝てないんだから!」


 私は泡を揉み込んでいく。

 汚れの奥深くに潜む呪詛が、泡の浄化作用に触れて激しく抵抗し、パチパチとはじける。


(よし、手応えあり。汚れの核が分解されていくわ。あとは一気に洗い流すだけ!)


「泡よ、すべてを包み込み、光へ還して。不潔なものは許しません! ……えいっ!」


 私が魔法の詠唱と同時に、魔法の泡が眩い光を放ち、黒い呪いを取り込んで消滅させた。

 排水口へと流れていく水が、どす黒い色から灰色へ、そして透き通った透明へと変わっていく。


 その後に残されたのは、愛らしい生き物だった。


「……きゅ、きゅぅ?」


 それは、柔らかそうな桃色の鱗に包まれ、額に大きなルビーを抱いた「宝石竜――カーバンクル」の幼体だった。

 大きな瞳は潤み、まだ恐怖に震えているけれど、その体からは先ほどの禍々しさは微塵も感じられない。


「あら。まあ、なんて可愛らしいのかしら。宝石竜の赤ちゃん……? ふふ、お目目もルビーみたいに真っ赤で、とっても素敵よ」


 私はタオルで優しく包み込み、その小さな体を抱きしめた。

 洗いたての清らかな香りが、鼻先をくすぐる。


「わふっ」


 足元で、モップがどこか誇らしげに鼻を鳴らした。

 「ふん、まあ俺の毛並みの輝きには及ばないけどな」と言いたげな、勝ち誇ったようなその顔を見て、私は思わず噴き出してしまう。


「ありがとう、モップ。あなたがいなかったら、このタイルももっとボロボロになっていたわ。やっぱり、あなたは私の最高のパートナーね」


「わふんっ! (あたりまえさ)」


 最高の褒め言葉にモップは、ちぎれんばかりに尻尾を振った。

 山あいの小さな理容店に、ようやく平和な午後の光が、穏やかに差し込んできた。


  

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