自動販売機の明るさに凭れ掛かって、おれはいた。熱い缶コーヒーから伸びる湯気を透かして、ぼんやり夜を見る。また、そのままで。


 仕事を終えても、どうしても拭えずにいる。背を撫でる呼び声についつい、振り返りそうになっていた。サンダーで鋼材に付着したスパッタを研磨するときにも、吊り具を掛けては親を起こせだ、左に微動旋回だと合図したときにも。じわじわと『お兄さん』の一言に産毛が逆立った。


 サヤはおれを呼ぶたび、気恥ずかしそうに目を伏せていた。耳に垂れる黒髪へ、手櫛を執拗に通していたようにも思う。強張った肺へと溶かし、呼吸をゆっくり休めやっとこさ、決心する。見上げ、お兄さん。それはいつの記憶だったろう、あのときのサヤは、なにを着てたろうか。


「あつつ……」


 缶コーヒーの熱に右手が痛くなって、左に持ち替える。辺りはすっかり、暗闇だ。故郷よりは都会でも、工場地帯となると変わり映えしない。


 関係者以外立ち入り禁止の看板と、無機質な網がずらっと並ぶ道。街灯もぽつんぽつんとあるだけで、光源と言えば煙突に赤い警告灯や、昔ながらの白熱電球が伺える。燈に染まる工場の重々しさも、おれにとっては心地良い静寂だ。背にした自動販売機だって、チカチカおれを揶揄している。


「……喪服なあ」


 会社に話せていない。今一、分からなかったからだ。サヤは死んだ、それだけは分かっても。通夜は、とか、葬式はいつになるのか、とか。当たり前に、今日が通夜になるんだろうか、とか。分からない、また、そのままに。


「……」


 通夜には間に合わんじゃろう、とでも言ったのか。来ない方がええ、と言ったのか、おれには分からない。おれはもっと、具体的な指示書が欲しかった。直すにしろ、作るにしろ、曖昧に濁されてはなんにも手に付かない。


「お兄さーん」


 なんて声がした。ありかを探せば、暗がりからのっそりと近付く小山があった。丸い塊に、おれはぎょっとする。


 無意識に握ったアルミ缶の熱さを頼りに、ギラギラと睨め付ける光沢に目を疑った。のそのそと小山が夜から這っている。巨大な生物の目玉のように、左右に揺れ浮く、鋭い色。歪な山にギラっとした目が二つあると、大きな貝殻を担いだヤドカリのようにも思った。


 不器用な歩き方で、夜道を這いずる塊。しまいには自動販売機の強い光を遮った。悩んでどうしたもんか迷ってりゃ、ヤドカリは傍らにどかっと豪華な宿を放る。


「んんん……!」


 ヤドカリは鋏を夜空に掲げ、丸まった背を伸ばしている。冷え固まった背筋を解している。


 宿を見やれば、なんのことはないリュックサック。登山家が背負っていそうな無骨なもの。しかも、どうなっているのか、奇抜な小物でじゃらじゃら装飾していた。自動販売機の光を七色に返すので、目に入ってくると痛さすら感じる。流行りなのかは分からんが、これがおれを睨んだ目玉の正体だった。


「いやー、マジダルっ! つーか、キャパいわー!」


 ヤドカリは宿にどかんと座って、脚を投げ出した。切断用サンダーが鋼材に引っ掛かった、あの耳障りなモーター音みたいな声。判然としない不安が過って、半歩退く。路上に停めた車まで、数歩。


「ちょー、さむいんすけどー!?」


 ヤドカリは丈が短いスカートから白い脚を出し、じたばたもがいていた。サンダーが引っ掛かると、そのモーターのパワーに身体ごと負けて引き摺り回されるものだ。それは電源が抜けるまで、骨や肉を轢き潰すものだ。


「……」


 高い音、モーターが空回りするような。しかし、引っ掛かりだけで抑圧された危うさのある、あのなんとも口にし難い感覚に襲われた。


 ヤドカリが腰掛ける姿は不気味で、そうした、暗がりから手招きされる肌触りがあった。ヤドカリは自慢の鋏で、手鏡を宿から引き抜いていた。風に巻かれた金髪を撫で、満足そうに潮を招く。


「なんで逃げんの?」


 手鏡を宿に押し込み、飾り立てた鋏でチョキを掲げた。


「うちが行くしかねえな、みたいな感じー?」


 距離を詰めようとするヤドカリ。おれは迷って、行動はする。ツナギのポッケを漁り、ガラケーを取り出す。かちっと開いて、迷わず番号を打つ。決定ボタンを押し込む瞬間、ヤドカリは宿を蹴飛ばしてぐいっと飛び込んできた。


 素早い、日頃潮から逃げるヤドカリらしい脚力。


 手首を挟まれた。鋏を二つも使ってヤドカリが右腕にぶら下がった。


「チームともだちー!」


 流石に、打てない。四苦八苦。


「ねー、うちと話そー? 月夜だよ?」

「お前、未成年だろ……なにしてんだ?」


 縋るヤドカリを強く突き放す訳にもいかず、おれは抗議は突っぱねる。ヤドカリから鼻がむずむずする、珍しい匂いがした。ヤドカリには縁がなさそうな、暖かさのある香りだ。香水、にしては地味なもの。


 白檀に近い。ふと、その香りはサヤと重なった。でもサヤの纏うあの香りは、もっと冷たいものだった。どうしてか、ヤドカリからはサヤのような冷たさがない。


「……」

「お兄さんまじ情緒ない!」


 油断したのも束の間、ヤドカリがガラケーをばしりと叩いて閉じやがった。危うく落としそうになり、無言で睨む。


 そうすれば「あ、ちがう。お兄さんまじハオい!」とも宣った。


 なにを言っているのかは分からないが、どっと肩に伸し掛かる重みだけはあった。ヤドカリみたいに宿をこさえさせらた感覚だ。抵抗は出来ても、どうもアホらしくなってきた。


 ヤドカリは口を膨らませて、おれに小生意気にも威嚇している。


「……お前、なにがしたいんだ? 親は? 家は? 二時だぞ二時」


 落ち着こうと缶コーヒーに口をつけた。熱かったコーヒーも、バカげた遣り取りで冷めていた。こんなにも冷えた真冬に、生温く広がる。求めていた休息が遠退いていく。ヤドカリは尚も威嚇している。


「お兄さんこそ、なにしてんの? 二時だよ二時」


 濁った息を吐いて、吊り目をきっと細めた。腰に手を当て、健康的な足を揃えた。真冬なのに素肌で挑むような、若いんだかアホなんだか分からないが。


「ずばり、うちとおんなじ」


 マニュキュアで武装した人差し指を突き出した。おれはポッケにガラケーを押し込んで、缶コーヒーを隣のごみ箱に押し込む。


「家まで送ってやるから……道教えろ。若いやつってのはほんとに……」


 車を顎でしゃくって、ぶつぶつ文句を垂れる。ヤドカリは嫌味を気にした様子ではなかった。


「まずは……ありがと……? でもごめんね?」


 手を合わせ、あざとく頭を傾けた。鮮やかな舌を出しても、無駄だとは思わないのか不思議でならない。サヤならもっと素直に、いやそもそも夜中に出歩きはしないだろう。


「……」

「え、急にだんまり? どしたん?」


 サヤとは対極だ。戯けるヤドカリに、心底に思う。

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