第9話 崇高なる未来図(フューチャー)
梅雨の気配が漂う聖シロツメ女学園・男子部。3年A組のホームルームでは、卒業後の進路が話題の中心となっていた。この時期、ほとんどの生徒は進学か就職かの方向性が確定している。
「俺、やっぱり国立の工学部受けるわ」
「僕は父の会社継ぐから、経済学部なんだ」
「羨ましいなぁ。俺なんていまだに文系か理系かも迷ってるよ」
クラスメートたちが、それぞれの未来を語り合う中、一人の男子生徒が窓際の席に視線を向けた。
「なあ、八木はどうなんだ? 成績学年トップで、しかも身体能力も全国レベルのお前なら、どこでも行けるだろ?」
全員の視線が、銀髪の貴公子・八木翔へと注がれた。
八木は窓の外――遠くに見える緑豊かな公園を見つめたまま、静かに口を開いた。
「……就職する」
「おおっ、やはり! どこかの一流企業狙いか!?」
「外資系のコンサルとか?」
ざわめく教室。しかし、八木は首を横に振った。
「環境整備の……仕事だ」
一瞬の静寂。そして、教室は再び熱狂に包まれた。
「な、なんて崇高な……! 学歴競争に背を向け、『地球を守る』という使命を選んだのね!」
「八木先輩……! 大学進学という既成概念に縛られず、直接フィールドで働く道を……!」
そんな中、立花さんだけが、机に突っ伏して小さく震えていた。
(環境整備って……つまり、公園とか河川敷の除草作業でしょ! 八木くんにとっては『食べ放題バイキング』じゃない!)
一人の女子生徒が恐る恐る尋ねた。
「八木先輩……それは、ご家族の影響、ですか?」
「……ああ」
八木は力強く頷いた。
「母も……同じ仕事だ。そして、祖父も」
教室が、静まり返った。
「お母様も……お祖父様も……」
「まさか、代々続く家業なの!?」
八木の脳裏には、広大な山の斜面で険しい崖を自在に駆け回りながら雑草という雑草を食べ尽くす母ヤギと、その奥に威風堂々と佇む、立派な顎髭を蓄えた祖父ヤギの姿が浮かんでいた。
(……祖父は、一日で三ヘクタールの草原を平らげた。そして、あの顎髭……風になびく、あの白銀の威厳……)
「八木先輩のお祖父様って……」
「もしかして、環境庁の……いや、もっと上!?」
「聞いたことがあるわ! 昔、環境保全で大臣を務めた伝説の……!」
生徒たちの妄想が加速する中、八木は遠い目をして答えた。
「祖父は……立派な、顎髭を蓄えていた」
「ああっ! やはり重鎮……!」
「その威厳ある風貌で、世界中の環境会議を取り仕切っていたのね!」
八木は静かに続けた。
「祖父のように……俺も、立派になりたい」
「なんという……! 三代に渡る環境保全の家系……!」
「だから八木先輩は、あんなにも自然と調和した動きができるのね!」
昼休み。屋上のフェンスの上で、八木は立花さんから手渡された「小松菜」を静かに咀嚼していた。
「ねえ八木くん、本当にいいの? まだ進学って選択肢だって考えられるわよ?」
八木は、小松菜を味わいながら首を横に振った。
「……俺には、これしかない」
その瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。大学という四年間を、草のない都会のキャンパスで過ごすなど、彼にとっては「断食修行」に等しかったのだ。
「母は今も、毎日……現場に立っている。そして祖父は、生涯現役を貫いた」
八木の声には、深い敬意が込められていた。
(母さんは今日も、広大な庭の雑草と格闘している。そして祖父は、年老いてもなお、あの立派な顎髭をなびかせながら断崖を駆けていた……)
「立花。……俺は、『自然と共に生きる』道を選んだ」
「(……うん、まあ、八木くんは『自然そのもの』だもんね)」
立花さんは深い溜息をつきながら、鞄から「パセリ」を追加で差し出した。
「でも、みんな勘違いしてるけど……八木くんのお祖父様、別に大臣とかじゃないわよね?(ヤギだし……)」
「……顎髭は、立派だった」
「そこじゃない!」
放課後――。
担任教師が職員室で、進路希望調査の一覧を眺めていた。
『八木翔:就職希望(環境整備業・除草・緑地管理方面)/家業継承予定』
「八木の家系……お母様も環境関連の仕事だと聞いていたが、三代続く環境保全の名家か。道理で、あの子は自然との一体感が違うわけだ」
教師は感動のあまり、そのリストに赤ペンで『志高し』と書き添えた。
しかし、そのリストの端に小さな「齧り跡」があったことには――気づかなかった。
初夏の夕暮れ。
八木は、いつものフェンスの上で、遠くの緑地を見つめながら、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……祖父よ。俺は、お前の背中を追い続ける。そして、あの立派な顎髭のように――」
風が吹き、八木の顎のラインが夕日に照らされる。
顎髭はまだ生えていない。しかし、顎の力強さは、確かに祖父譲りだ。
その横顔はあまりに気高く――そしてその未来は、あまりに「草食系」なのであった。
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