第8話 不在の調律(ハーモニー)
月曜日の朝。聖シロツメ女学園・男子部の3年A組。
いつもと何かが違う――生徒たちは、漠然とした違和感を抱いていた。
「……なんか、今日って静かじゃない?」
「うん。なんだろう、この妙な感じ……」
担任教師が出席を取る中、一つの席が空いていた。
「立花さん、欠席か。風邪だそうだ」
その瞬間――窓際の席で、八木翔の鼻がピクリと動いた。
(……立花が、いない。……ということは)
八木の視線が、ゆっくりと自分の机の上に落ちる。
そこには――数学の教科書。
表紙の角が、陽光を浴びて誘惑的に光っている。
(……今日は、食べても大丈夫)
昼休み。
八木は購買部へ向かった。
「あら八木くん。今日もレタスサンド? ……どうしたの? 元気ないわね?」
購買のおばちゃんが、わずかに首を傾げながら、いつもより少しだけ多めにレタスを詰め込んだ紙袋を差し出した。
八木はそれを受け取ると、屋上のいつものフェンスの上に立ち、サンドイッチを一口齧る。
(……うまい)
しかし――八木の視線は、屋上入口のベンチへと注がれていた。
いつもなら立花さんが座っている場所。
今日、そこには誰もいない。
八木はポケットから数学のプリントを取り出した。
紙の繊維が、陽光を浴びて美味しそうに輝いている。
(……一口だけなら)
次の瞬間――八木はハッとした。
(……いや。今日はやめておくか)
八木は、ゆっくりとプリントをポケットに戻した。
放課後。
八木は商店街の八百屋の前に立っていた。
店先に並ぶ、新鮮な葉野菜たち。
小松菜、パセリ、セロリ、レタス。
(……立花、風邪)
八木は無言で、野菜を一つずつ手に取り始めた。
「あら、お兄さん。今日はたくさん買うのね。自炊?」
「………(見舞い)」
「えらいわねぇ! じゃあ、新鮮なのを選んであげるわ」
八百屋のおばちゃんが、丁寧に野菜を包んでくれる。
八木はそれを受け取ると――じっと見つめた。
瑞々しい緑。完璧な葉の形。
(……一口だけ)
八木の口が、ゆっくりと開きかけた。
その瞬間――脳裏に立花さんの声が響いた。
『八木くん! 食べちゃダメー!』
\秘技・幻聴の抑止(イマジナリー・ストップ)/
八木は慌てて口を閉じた。
そして、野菜束を不器用ながらも丁寧にリボンでまとめ始める。
「お兄さん、器用ねぇ」
八木は真剣な表情で、野菜束を完成させた。
立花さんの家。
ピンポーン、とインターホンが鳴った。
「あら、あの子のお友達? えっ……すごいイケメン……!」
立花さんの母親が玄関を開けると、そこには――
八木が、無表情のまま、緑色の巨大な塊を抱えて立っていた。
「………(見舞い)」
「……八木くん!?」
ベッドから飛び起きてきた立花さんが、呆然とそれを受け取る。
「え……これ……重っ!?」
緑の葉野菜が、驚異的なボリュームで束ねられている。
「……八木くん、これ花束じゃなくて野菜束だよね!? っていうか、八百屋一軒分くらいあるんだけど!?」
「………(緑、綺麗)」
「いや、確かに綺麗だけど! 普通お見舞いって、もっとこう、カーネーションとか……!」
八木は無言で――スッと立花さんの額に手を当てた。
「………(熱、ある)」
「う、うん……風邪だから……」
「………(無理、するな)」
八木はそう言うと、小さな紙袋を渡した。
中を覗くと――「ミント味のタブレット」。
「八木くん……これ、この間八木くんが食べて『70点。草ではない』って微妙な顔してた……」
「………(お前には、いいかもしれない)」
立花さんは、思わず笑ってしまった。
「ありがとう、八木くん。……今日は一人で大丈夫だった?」
「………(問題、ない)」
「教科書、食べてない?」
「………(食べて、ない)」
「木の枝は?」
「………(少し)」
「やっぱりか!!」
八木が帰った後。
立花さんは、手元の野菜束を見つめた。
小松菜、パセリ、セロリ、レタス。
どれも新鮮で、瑞々しく、美しく束ねられている。
そして――
「……あれ?」
立花さんは、野菜束を隅々まで確認した。
葉の一枚一枚。茎の先端まで。
どこにも――どこにも――
齧られた跡がない。
「………八木くん」
立花さんの目が、わずかに潤んだ。
八木くんは、きっと――この野菜束を束ねる時、何度も何度も誘惑と戦ったはずだ。
「一口だけ」という本能の囁きを、何度も押し殺したはずだ。
それでも――一口も、齧らなかった。
完璧に、美しいまま、届けてくれた。
「……バカ」
立花さんは、野菜束を胸に抱きしめた。
「全部食べちゃってよかったのに……」
窓の外。
八木の姿が、住宅街の角を曲がって見えなくなる。
その後ろ姿は――いつもと変わらず、孤高で、優雅だった。
しかし、立花さんには分かった。
八木くんは今頃、きっと――帰り道の生け垣の葉っぱを、いつもより多めに齧っているのだろう。
美味しそうに頬張る八木の姿を想像し、立花さんは、クスリと笑った。
「……明日は、特盛りレタス持っていってあげよう」
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