番外編

八木先輩の伝説/入学式

 四月。桜が舞い散る聖シロツメ女学園・男子部の正門前。


 新入生たちが緊張の面持ちで校門をくぐる中、一人の銀髪の少年が、正門の「門柱」の上に立っていた。


 強風に銀髪をなびかせ、その涼しげな瞳は真っ直ぐに、体育館の方角を見つめている。


「ねぇ、見て……あの新入生、門の上にいるわよ」


「きゃあっ! なんてミステリアスなの!」


 上級生の女子たちがざわめく中、八木翔は微動だにしない。


 彼の視線の先にあるのは、入学式の会場ではなく、体育館の裏手に広がる「雑草だらけの校庭の隅」であった。


(……緑。……あそこに、朝露に濡れた柔らかいやつがある)


 入学式開始十分前。体育館の入り口は、新入生と保護者でごった返していた。


 その人混みの中を、八木は実に「独創的」な方法で進んでいた。


 彼は人の肩を軽く踏み台にし、まるで飛び石を渡るかのような軽やかさで、頭上を歩いていく。


「な、なんだあれ!? 人の上を歩いてる!」


「見て……足音が聞こえないわ。まるで重力を無視しているみたい……!」


 実際、八木の足取りは羽のように軽かった。ヤギとしての卓越したバランス感覚が、人々の頭を傷つけることなく(※わずかに髪の毛を踏んではいたが)、優雅な空中散歩を可能にしていた。


 八木が着地した先は、新入生席の最前列。


 彼は誰に挨拶することもなく、ただ静かに椅子へ腰を下ろした。その神々しいまでのオーラに、周囲の新入生は息を呑んだ。


「す、すごい……。あの人、絶対に生徒会長とか、そういう人だよね……!」


「いや、まだ制服も着慣れてない。きっと俺たちと同じ新入生だよ!」


 入学式が始まった。


 校長の長い祝辞が続く中、八木の集中力は別のところに向けられていた。


 彼の視界を支配していたのは、壇上に飾られた「巨大な祝い花のアレンジメント」。その中に、瑞々しい「ユーカリの葉」が何本も挿されていた。


(……いい色だ。……水分をたっぷり含んでいる)


 八木の喉が、かすかに動いた。


 その瞬間、隣の席に座っていた少女が、小声で話しかけてきた。


「ねぇ、あの……あなた、さっき門の上にいた人よね? すごい身軽だったわね」


 振り返ると、そこには人懐っこい笑顔の少女がいた。立花さんである。


「私、立花。よろしくね! ……って、聞いてる?」


 八木は答えない。彼の視線は、立花さんのリボンに結ばれた「小さな造花のクローバー」に釘付けになっていた。


「(……あ、これまずい予感がする)」


 立花さんは直感した。目の前の銀髪の美少年が、何か「普通じゃない」と。


 次の瞬間、八木が立花さんのリボンに顔を近づけた。


「ちょっ、ちょっと!? 何してるの!?」


 立花さんが慌てて後ずさる。周囲の新入生たちは、それを「新入生同士の初々しい恋の駆け引き」と勘違いし、ざわめいた。


「見て……! 入学式で、もう告白してるわよ!」


「なんて積極的な……!」


 八木は無言で、立花さんのリボンに鼻を近づけると、クンクンと匂いを嗅いだ。


「(……布だ。……食えない)」


 八木は興味を失ったように、再び壇上の花へと視線を戻した。


 そして、運命の瞬間が訪れた。


 新入生代表の宣誓である。


 代表に選ばれたのは、成績優秀者リストの最上位に名を連ねていた「八木翔」。


 周囲がどよめく中、八木は無表情のまま、ゆっくりと立ち上がった。


「(……え、あの子が代表なの!?)」


 立花さんは驚愕した。


 八木は壇上へと向かう。その歩みは一歩一歩が計算され尽くしたかのように美しく、まるでランウェイを歩くモデルのようであった。


 しかし、実際は壇上の花に一直線に向かっているだけである。


 八木が演台の前に立つ。全校生徒と保護者、そして教職員の視線が一斉に彼に注がれた。


 彼は宣誓書を手に取ると、それを高く掲げた。


「…………」


 沈黙。


 八木は一言も発しない。ただ、宣誓書を見つめ続けている。


 会場がざわつき始めた。


「(……まさか、緊張して声が出ないの!?)」


 立花さんは焦った。


 その時、八木が動いた。


 彼は宣誓書をゆっくりと口元へと運ぶと――。


「メェェェェェ〜〜〜〜〜〜……ッ!!」


 会場を震わせる、圧倒的なビブラート。


 それは深い谷底から響く聖歌のようであり、新たな門出を祝福する福音でもあった。


 会場は静まり返った。


 次の瞬間、割れんばかりの拍手が響き渡る。


「素晴らしい……! 言葉を超えた、魂の宣誓だ……!」


 校長が涙ながらに立ち上がった。


「彼は……言葉という枷を捨て、純粋な『音』で誓いを立てたのだ……!」


 保護者席からも、感動の声が上がる。


「なんて斬新な……! これこそが、新時代の若者の表現なのね!」


 立花さんは頭を抱えた。


「(……あれ、絶対に宣誓書を食べようとしてたわよね!?)」


 入学式が終わった。


 新入生たちが談笑する中、八木は一人、体育館の裏手へと向かっていた。


 彼が目指すのは、あの「雑草の楽園」。


 八木は誰もいないことを確認すると、ゆっくりと膝をついた。


 そして、朝露に濡れた柔らかいクローバーを、一口、優雅に頬張った。


「(……神)」


 その瞬間、背後から声が響いた。


「やっぱりね!」


 振り返ると、立花さんが呆れた表情で立っていた。


「あなた……さっきから絶対に何か食べようとしてたわよね!? 宣誓書も、私のリボンも、壇上の花も!」


 八木は無言で、もう一口クローバーを頬張った。


「聞いてる!? ……って、もしかしてあなた、草が好きなの?」


 八木は初めて、立花さんを真っ直ぐに見つめた。


 その瞳には、一切の邪念がない。ただ純粋に、目の前の緑を愛する「野生の輝き」があった。


「……(うめぇ)」


 立花さんは溜息をついた。


「もう……わかったわよ。じゃあ、これからあなたが変なもの食べないように、私が見張ってあげる」


 そう言って、立花さんは鞄から小さなタッパーを取り出した。


「はい。お母さんが作ったサラダの残り。レタスとキャベツ、入ってるから」


 八木の瞳が、初めて輝いた。


 彼は無言でタッパーを受け取ると、中身を一気に頬張った。


「メェ……」


 それは、感謝のビブラートだった。


 夕暮れの校舎。


 屋上のフェンスの縁に立つ八木の姿を、立花さんは見上げていた。


「(……この人、絶対に普通じゃないわ。でも……なんだか放っておけないのよね)」


 立花さんは、これから始まる三年間が、どれほど波乱に満ちたものになるか、まだ知る由もなかった。


 八木は夕日に向かって、今日一番の輝かしいビブラートを響かせた。


 聖シロツメ女学園・男子部に、新たな伝説が生まれた瞬間である。



【あとがき】


この日、八木翔の入学式での「魂の宣誓」は、学園史に残る名場面として語り継がれることになる。


しかし、誰一人として気づいていない。


彼が本当に叫ぼうとしたのは、宣誓ではなく「この紙、美味そう」という、ただの食欲だったことを。


唯一の理解者・立花さんの苦労は、この日から始まったのである。


ちなみに……。

立花さんが、「八木の正体はヤギ」だと知るのは、ほどなくしての事だった――。

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八木先輩の正体はヤギです〜全校のカリスマ、実は本能で生きてます〜 草波 美味 @kusa_umeee

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