第7話 雨上がりの哲学者(フィロソファー)

 梅雨入りを告げる雨が、聖シロツメ女学園・男子部の校舎を濡らしていた。

「うわ、マジで降ってきた!」

「傘持ってきてないよ〜!」

 昼休み。突然の豪雨に、生徒たちが廊下の窓際に集まっている。

 その中で、八木翔だけは――一人、屋上への階段を静かに登っていた。

「見て……八木先輩、雨の中を!?」

「きっと、雨に打たれながら何か思索にふけるつもりなのよ……!」

 女子生徒たちの黄色い声が後を追う。

 しかし、八木の脳内を支配していたのは、思索などではなかった。

(……雨。……ということは、あれが)

 彼の瞳が捉えているのは――屋上のプランターである。

 雨で濡れた土から、今朝植えたばかりの「クローバーの新芽」が、瑞々しく顔を出しているはずだ。


 \秘技・雨天の収穫(レイニー・ハーベスト)/


 屋上のドアを開けた瞬間、八木は全身ずぶ濡れになった。

 しかし、彼は一切動じない。

 むしろ、その銀髪に雨粒が滴る様子は、彫刻のように美しかった。

 八木はゆっくりと、プランターに近づく。

 そこには――予想通り、小さな小さな、シロツメクサの双葉が並んでいた。

(……完璧だ)

 八木が手を伸ばした、その瞬間――

「八木くん、待ちなさい!!」

 背後から飛んできたのは、傘を差した立花さんだった。

「それ、今朝植えたばっかりでしょ!? まだ根も張ってないのよ!?」

「……食べる」

「ダメに決まってるでしょ! せめて来週まで待ちなさいよ!」

 立花さんが八木の前に立ちはだかる。

 しかし、八木の視線は――立花さんの持つ傘の「外側」へと向けられていた。

 雨に濡れた傘の布地に、一枚の「濡れ落ち葉」が張り付いている。

「……(あれも、いける)」

「だから何見てるのよ!? まさか、私の傘に付いてる葉っぱ!?」

 八木の首が、ゆっくりと傘へと伸びる。

「やめなさい! 落ち葉は泥だらけだから!」

 立花さんが慌てて傘を振ると、葉っぱが風に舞った。

 八木の瞳が、その軌跡を正確に追う。

 そして――

 空中で一回転した葉っぱが、八木の口元へと吸い込まれた。

 

\秘技・空中捕食(エアリアル・キャッチ)/


「やっぱり食べたーーー!!」


「八木先輩、屋上で雨に打たれながら瞑想されてるらしいわよ……」

「さすが……自然と一体化する修行なのね……」

 階下では、八木の伝説がまた一つ生まれていた。

 しかし、当の本人は――立花さんに強制的に屋根の下へ連れ戻され、タオルで頭をゴシゴシと拭かれていた。

「もう! 風邪引いたらどうするのよ!」

「……(ヤギは風邪を引かない)」

「人間の姿してるんだから、人間の病気になるでしょ! ……たぶん!」

 立花さんがタオルで八木の髪を拭いていると――ふと、八木の制服のポケットから、何かが落ちた。

 カラン、と軽い音を立てて転がったのは――小さな「ミント味のタブレット菓子」。

「あれ? 八木くん、こんなの持ってたの?」

 立花さんが拾い上げると、八木の視線がそれに釘付けになった。

「……(緑。そして、草の香り)」

「ちょ、ちょっと! これミント味だけど、プラスチックのケースごと食べないでよ!?」

 立花さんが慌ててタブレットを一粒取り出し、八木の口に放り込んだ。

 八木の表情が――わずかに、困惑に歪んだ。

「……(これは……草……ではない)」

「当たり前でしょ! ミントフレーバーってだけで、草じゃないわよ!」

 しかし、八木は数秒間、その「草のようで草でないもの」を口の中で転がし続けた。

 そして――ゴクン。

「……(70点)」

「採点してるし! しかも厳しい!」


 雨が上がった放課後。

 屋上に虹がかかっていた。

 八木は、いつものフェンスの上に立ち、その虹を見上げている。

「見て……八木先輩が、虹を見つめてる……」

「きっと、自然の神秘に心を打たれてるのね……」

 女子生徒たちが、また黄色い声を上げる。

 しかし、八木の瞳が追っているのは――虹ではなく、その下に広がる「雨上がりの中庭」だった。

 濡れた芝生が、太陽の光を浴びて、キラキラと輝いている。

(……雨上がりの草は、瑞々しい)

 八木の鼻がヒクヒクと動いた。

「八木くん、降りなさい。もう授業終わったんだから、帰るわよ」

 立花さんが呼びかけるが、八木は動かない。

「……立花」

「何?」

「雨上がりの草は……」

 八木が何かを言いかけた、その瞬間――

 彼の足が、濡れたフェンスの縁で滑った。

「あっ!」

 立花さんが叫ぶ。

 しかし、八木は落下しなかった。

 彼は空中で一回転すると、まるで猫のように――いや、ヤギのように――軽やかに着地した。


 \秘技・雨天の反転(レインボー・フリップ)/


「す、すごい……! 三階から飛び降りて、無傷……!」

「さすが八木先輩……もはや人間の領域を超えてる……!」

 生徒たちが騒ぐ中、八木は何事もなかったかのように、中庭の芝生へと歩いていった。

 そして――誰も見ていない影で、雨上がりの柔らかい草を、一口だけ頬張った。

「……(神)」


 夕暮れの校門。

 立花さんが、溜息をつきながら八木に傘を差し出した。

「はい。帰り道、また降るかもしれないから」

「……(いらない)」

「いるでしょ! ……って、あっ!」

 八木は傘を受け取ると――その柄の部分を、じっと見つめた。

 木製の持ち手。いい感じに湿気を含んでいる。

「だから、傘は食べ物じゃないから!!」

 立花さんの叫びが、梅雨空に響いた。

 八木先輩の雨の日の戦いは、まだ始まったばかりである。

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