第3話 蒼き断崖の避難訓練(エスケープ)
「火災発生。生徒は直ちにグラウンドへ避難せよ。……繰り返す、これは訓練である」
けたたましいサイレンが、聖シロツメ女学園・男子部に響き渡った。
その瞬間、3年A組は大混乱に陥った。
「うわっ、階段混んでる!」
「押すなよ、危ないって!」
生徒たちが我先に廊下へ飛び出す中――八木翔だけは、窓際の席で彫刻のように動かなかった。
銀髪を風になびかせ、その視線は真っ直ぐグラウンドの一点を見つめている。
「見て……八木先輩、全然慌ててない……!」
「きっと、パニックにならない避難経路を脳内でシミュレーションしているのよ……!」
女子生徒たちは後ずさりしながら、八木の冷静さに感動していた。
しかし、八木の脳内は別のことで忙しかった。
(……白い。……あそこに、塩の山がある)
彼の視線の先――グラウンドの隅に、ライン引き用の石灰袋が高く積まれていた。八木の本能は、それを「避難後に独り占めできる天然岩塩」だと判定していた。
「ちょっと八木くん! 何ボーッとしてるの、早く逃げなさいよ!」
立花さんが駆け寄るが、八木は動じない。
彼はスッと立ち上がると――窓枠に足をかけた。
(階段、混んでる。……なら、こっちだ)
次の瞬間、八木は三階の窓から身を躍らせた。
「「「きゃああああああ!!?」」」
教室に残っていた生徒たちが悲鳴を上げる。
しかし、八木は落下しなかった。彼は校舎の外壁にあるわずか5センチの窓枠の出っ張りを、まるでロッククライミングのホールドのように捉え――トン、トン、トン――と、エアコンの室外機を足場に、垂直な壁面を跳ねるように降りていく。
\秘技・垂直の円舞曲(ヴァーティカル・ワルツ)/
まるでパルクールの達人。いや、それ以上だ。彼の動きには、一切の迷いがない。重力を無視したような、流麗な跳躍。
地上に着地した八木を、先に避難していた生徒たちが呆然と見つめた。
「嘘……八木先輩、壁を降りてきた……!?」
「階段の混雑を避けて、最短ルートを選んだのね……!」
「さすが八木先輩……災害時のリーダーシップがヤバい……!」
八木は無言で、真っ直ぐグラウンドの隅へ歩いていく。その神々しいオーラに、誰もが道を開けた。
(……今なら、誰も見ていない。一口だけ……)
八木がライン引きの石灰袋に顔を近づけた、その瞬間――
「……八木、くん……っ!」
背後から凄まじい殺気が飛んできた。間一髪、立花さんの手が、八木の口元に「小松菜の茎」をねじ込んだ。
「(それ石灰! カルシウム化合物! 舐めたら口の中ただれるから! ……ほら、こっち食べなさい!)」
八木の瞳が一瞬、不満そうに細められる。しかし次の瞬間、小松菜を凄まじい勢いでバリバリと咀嚼し始めた。
周囲の生徒たちには、それが「緊迫した状況下で交わされる、特殊部隊のハンドシグナル」のように見えた。
「……(うまい)」
八木の表情が、わずかに緩んだ。
その時――救助袋を使った降下訓練が始まった。三階の窓から伸びる白い布の筒。生徒たちが次々と滑り降りてくる。
しかし、最後に残った一人の男子生徒が――動けなくなっていた。
「怖い……無理だよ、僕には無理……!」
高所恐怖症らしい。窓の縁にしがみついて震えている。
「大丈夫だから、ゆっくりでいいから降りてきなさい!」
教師たちが説得を試みるが、少年は首を横に振るだけだ。
その時――八木がゆっくりと歩み出た。彼は救助袋の出口に立つと、空を見上げ、大きく息を吸い込んだ。
「メェェェェェ〜〜〜〜〜〜……ッ!!」
その瞬間、世界が静まり返った。八木の声は、深い谷底から響く聖歌のようだった。それは、迷える魂を導く、優しくも力強い福音。
(……(早くしろ。小松菜の芯が、まだ残ってる)……)
その「美声」の振動が、救助袋の布を伝わって三階まで届く。震える少年の背中を――優しく、力強く、押し出した。
「あ……体が……」
少年は吸い込まれるように袋の中へ滑り落ち――無事に地面へと着地した。
「助かった……!」
八木は少年の頭を撫でようとして――その髪についていた「小さな枯れ葉」に気づいた。
パクリ。
「…………(ご馳走様)」
「先輩……! ありがとうございます! 僕、一生ついていきます!」
少年の目には、涙が光っていた。
夕暮れのグラウンド。訓練が終わり、校門へ向かう八木の背後から、立花さんが溜息をついた。
「もう……ハラハラさせないでよね。……ほら、これ。頑張ったご褒美」
差し出されたのは、「パセリの花束」。
八木はそれを受け取ると――今日一番の、輝かしいビブラートを響かせた。
「…………(神!)」
八木はパセリを一本ずつ、指揮者がタクトを振るように優雅に口へ運びながら、誰もいない校舎の屋根へと跳躍していった。
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