Phase5:侵食
順風満帆な日々をおくっていた。
今までだったら億劫だった仕事も苦にならず清々しい朝を迎えた。
「じゃあ、そろそろいくか」
「うん」
俺は左手をさすり嬉しそうな顔みてから家をでた。
◇
満員電車に揺られていると、
目の前にどこか見覚えのある顔立ちの女性が立っていた。
理由は分からない。
ただ、胸の奥がざわついた。
「……ママに、あいたい」
左手が、小さく震えた。
次の瞬間、私は気づいた。
肩に向かって、指が伸びかけている。
触れてはいけない。
分かっているのに、止まらない。
ぎり、と私は拳を握りしめ、無理やり左手を太ももに押し付けた。
「……かえりたい。かえりたいよ、ママ」
左手が、前へ出ようとする。
人の波に押されて、距離が縮まる。
その瞬間、私は自分の手首を掴んだ。
皮膚越しに、脈が跳ねる。
危なかった。
何をしようとしていたのか、考えたくなかった。
◇
次の駅に停車した瞬間、私は反射的に身体を前へ押し出していた。
ドアが開く。
人の波が崩れる。
私は、左手首を掴んだまま、無理やり外へ飛び出した。
ホームの空気が、肺に刺さる。
足がもつれ、よろけながらも数歩進んで、ようやく立ち止まった。
「……はぁ……はぁ……」
心臓が、耳のすぐ横で鳴っているみたいだった。
背後で、ドアが閉まる音がした。
電車は何事もなかったように走り去る。
私は、しばらく動けずに、その場に立ち尽くした。
「……なんで……」
声が震える。
左手は、まだ前に伸びた形のまま、硬直していた。
「なんでこんなことするんだ!?」
私は人の目も気にせず、ホームで左手に向かい怒鳴りつけた。
「へ、へへ……へへへ」
左手は大きく口角を釣り上げて下卑た笑いをする。
目を細め歯は剥き出しだった。
「いい女だったなぁー」
脂ぎった顔で舌なめずりをしていた。
「ど、どうしたんだよ!?」
信じたくなかった。
あんなに純粋だったやつがなんでこんなことに。
「あ……こっちもいいなぁ……あれもいいなぁ」
ホームには、何人もの人が立っている。
仕事に向かう女性。
学生。
スマホを見ている人。
急ぎ足で歩く人。
――視線が、勝手に動く。
ひとり、またひとり。
顔。
体格。
服装。
左手はあたりにいる女性をすべて値踏みしては勝手に動いた。
もう、私の言うことは聞いてくれなかった。
私は一目散に駆け出した。
人のいないところへ。
◇
人混みをさけ、ようやく自宅に帰ることができた。
だが。
「ママにあいたい! ママに会いたい!合わせろぉ!合わせろよ!」
左手は泣き顔を浮かべてダダをこねる。
もう、私の意思で動かすことはできなかった。
「……ごめんな」
私は左手の願いを叶えてやれず謝ることしかできなかった。
右手でそっと撫でることしかできない。
◇
あれから三日がたった。
また、左手が勝手に人に危害を加えてしまうのではと思うと、
怖くて出かける事ができなかった。
ずっと部屋に閉じこもっている。
依然として左手は泣き止まない。
「女ぁー!女ぁー」
寝るときもずっと叫んでいて頭がおかしくなりそうだった。
私は左手をじっと見つめる。
私と同じ顔。同じ声。
左手がもし罪を犯すなんて考えたら気が気でならなかった。
そして縄に視線を移す。
昨日、ネット通販で購入したものが家に届いた。
天井を見上げる。
そこに逃げ場が歩きがした。
震えが止まらない。
――死にたいのか。
それとも、ただ、この感覚から逃げたかっただけなのか。
答えは、分からなかった。
すると。
「パパだめ! 死んじゃだめ!」
左手が急に泣き止んだ。
その声は、叫びではなかった。
必死に、しがみつくみたいな、か細い声だった。
私は、その場で動けなくなった。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
「……ひとりにしないで」
そう続いた気がした。
私は、ゆっくりと左手を見た。
震えている。
小さく、頼りなく。
――このまま、置いていくのか。
考えた瞬間、背中が冷たくなった。
私は、その場に座り込み、左手を胸に引き寄せた。
「……無理だ」
声が、かすれる。
「こんな状態で……お前だけ、置いていけない」
言い終えた瞬間、左手の震えが、少しだけ収まった。
「……いっしょ、いる?」
私は、しばらく黙ったまま、呼吸を整えた。
心臓の音が、少しずつ落ち着いていく。
「……ああ。いるさ。ずっと一緒だ」
短く、そう答えた。
そのとき、胸の奥に、奇妙な感覚が広がった。
私は、ゆっくりと立ち上がり、部屋の電気をつけた。
夜の部屋が、現実の形に戻る。
それでも、左手の温度だけは、消えなかった。
私は、そのまま、ベッドに腰を下ろした。
「いい女だったなぁ」
生蜀 いそじま @ISOZIMA
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