Phase5:侵食

順風満帆な日々をおくっていた。

今までだったら億劫だった仕事も苦にならず清々しい朝を迎えた。


「じゃあ、そろそろいくか」


「うん」


俺は左手をさすり嬉しそうな顔みてから家をでた。



満員電車に揺られていると、

目の前にどこか見覚えのある顔立ちの女性が立っていた。

理由は分からない。

ただ、胸の奥がざわついた。


「……ママに、あいたい」


左手が、小さく震えた。

次の瞬間、私は気づいた。


肩に向かって、指が伸びかけている。


触れてはいけない。

分かっているのに、止まらない。


ぎり、と私は拳を握りしめ、無理やり左手を太ももに押し付けた。


「……かえりたい。かえりたいよ、ママ」


左手が、前へ出ようとする。

人の波に押されて、距離が縮まる。


その瞬間、私は自分の手首を掴んだ。

皮膚越しに、脈が跳ねる。


危なかった。

何をしようとしていたのか、考えたくなかった。


次の駅に停車した瞬間、私は反射的に身体を前へ押し出していた。


ドアが開く。

人の波が崩れる。


私は、左手首を掴んだまま、無理やり外へ飛び出した。


ホームの空気が、肺に刺さる。

足がもつれ、よろけながらも数歩進んで、ようやく立ち止まった。


「……はぁ……はぁ……」


心臓が、耳のすぐ横で鳴っているみたいだった。


背後で、ドアが閉まる音がした。

電車は何事もなかったように走り去る。


私は、しばらく動けずに、その場に立ち尽くした。


「……なんで……」


声が震える。


左手は、まだ前に伸びた形のまま、硬直していた。


「なんでこんなことするんだ!?」


私は人の目も気にせず、ホームで左手に向かい怒鳴りつけた。


「へ、へへ……へへへ」


左手は大きく口角を釣り上げて下卑た笑いをする。

目を細め歯は剥き出しだった。


「いい女だったなぁー」


脂ぎった顔で舌なめずりをしていた。


「ど、どうしたんだよ!?」


信じたくなかった。

あんなに純粋だったやつがなんでこんなことに。


「あ……こっちもいいなぁ……あれもいいなぁ」


ホームには、何人もの人が立っている。

仕事に向かう女性。

学生。

スマホを見ている人。

急ぎ足で歩く人。


――視線が、勝手に動く。


ひとり、またひとり。


顔。

体格。

服装。


左手はあたりにいる女性をすべて値踏みしては勝手に動いた。


もう、私の言うことは聞いてくれなかった。


私は一目散に駆け出した。

人のいないところへ。



人混みをさけ、ようやく自宅に帰ることができた。


だが。


「ママにあいたい! ママに会いたい!合わせろぉ!合わせろよ!」


左手は泣き顔を浮かべてダダをこねる。

もう、私の意思で動かすことはできなかった。


「……ごめんな」


私は左手の願いを叶えてやれず謝ることしかできなかった。


右手でそっと撫でることしかできない。



あれから三日がたった。


また、左手が勝手に人に危害を加えてしまうのではと思うと、

怖くて出かける事ができなかった。


ずっと部屋に閉じこもっている。


依然として左手は泣き止まない。


「女ぁー!女ぁー」


寝るときもずっと叫んでいて頭がおかしくなりそうだった。

私は左手をじっと見つめる。


私と同じ顔。同じ声。


左手がもし罪を犯すなんて考えたら気が気でならなかった。


そして縄に視線を移す。


昨日、ネット通販で購入したものが家に届いた。


天井を見上げる。

そこに逃げ場が歩きがした。


震えが止まらない。


――死にたいのか。

それとも、ただ、この感覚から逃げたかっただけなのか。


答えは、分からなかった。


すると。


「パパだめ! 死んじゃだめ!」


左手が急に泣き止んだ。


その声は、叫びではなかった。

必死に、しがみつくみたいな、か細い声だった。


私は、その場で動けなくなった。


胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。


「……ひとりにしないで」


そう続いた気がした。


私は、ゆっくりと左手を見た。


震えている。

小さく、頼りなく。


――このまま、置いていくのか。


考えた瞬間、背中が冷たくなった。


私は、その場に座り込み、左手を胸に引き寄せた。


「……無理だ」


声が、かすれる。


「こんな状態で……お前だけ、置いていけない」


言い終えた瞬間、左手の震えが、少しだけ収まった。


「……いっしょ、いる?」


私は、しばらく黙ったまま、呼吸を整えた。

心臓の音が、少しずつ落ち着いていく。


「……ああ。いるさ。ずっと一緒だ」


短く、そう答えた。


そのとき、胸の奥に、奇妙な感覚が広がった。


私は、ゆっくりと立ち上がり、部屋の電気をつけた。


夜の部屋が、現実の形に戻る。

それでも、左手の温度だけは、消えなかった。


私は、そのまま、ベッドに腰を下ろした。


「いい女だったなぁ」



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生蜀 いそじま @ISOZIMA

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