Phase3:成長
私は一目散に病院へ駆け出した。
なぜか、今すぐに切り離さないと取り返しのつかないことになると直感した。
あんなに億劫だった病院へ一刻もはやくたどり着きたい。
その一心で乱れる呼吸を無視し走り続けるのだった。
◇
自動ドアが開いた瞬間、冷えた空気が顔にぶつかった。
消毒液の匂いが鼻の奥に刺さる。
受付に並んだ。
番号札を取るはずだった。
いつもならなんてことはないのに震える右手が拒むように感じる。
左手で抑え込もうとするも自分のものではない気がして使う気になれなかった。
番号札を取りあぐねていると受付の人が
「大丈夫ですか?」
と声をかけてくれる。
「は、はい…大丈夫です」
人に見られていると思うと冷静になることができた。
いつのまにか震えは収まり、無事に札をとることができた。
左手はこわばったままだった。
◇
「……二三番」
番号を呼ぶ声が遠く感じる。
なんだかとてつもなく広い部屋に一人閉じ込められた気分だった。
待合室のテレビの内容も全く頭に入らなかった。
「……三二番、三二番!」
声が強まるのを感じようやく、病院にいたことを思い出す。
私の順番がきた。
私はそそくさと案内されるがまま診察室にむかった。
◇
「本日はどうされましたか?」
「あ、あの! こ、これをみてください」
私は医者に左手を差し出した。
異物に気づいてから目を背けていたが、専門家となら見ることができた。
今朝はあまりのできことに咄嗟に目をそらしたがじっくりと観察する。
やはり赤子だった。
皮膚そのものが、内側から押し上げられて、赤子の輪郭をかたどっている。
小さな頭。丸まった背中。
胸のあたりが、かすかに上下しているように見える。
血管の浮いた私の手の色と、淡く白い“それ”の色が、境目なく溶け合っていた。
体温が伝わる。
もう私なのか“私の手”なのかわからなくなりそうだった。
医者は私の手を揉んだり、凝視したり、様子を伺う。
私は少し不快に感じた。
「痛みますか? 外傷は特になさそうですがどうかされましたか?」
は。
頭の中が真っ白になった。
「腫れも、発赤もありません。触っても硬結は感じませんね」
医者は淡々とそう言いながら、私の左手をひっくり返し、指で押した。
ぐに、と皮膚が沈む。
沈んだ“はず”の場所に、赤子はいた。
いる。
いるのに、医者の指は、何もない空間をなぞるように通り過ぎていく。
「……え?」
声が、勝手に漏れた。
「ここです。ここに……」
私は震える右手で、赤子の頭の位置を指差した。
だが医者は、少しだけ眉をひそめて、私の指先を見た。
「……どこを指していますか?」
心臓が、強く跳ねた。
「だ、だから……ここに……赤……」
言葉が詰まる。
医者は、もう一度、ゆっくりと私の手のひらを押した。
皮膚がへこみ、戻る。
その動きの中で、“それ”の輪郭は、まるで存在しないかのように、形を保ったままそこにあった。
ずれている。
世界と、私の見ているものが。
「腫れはありません。皮膚も正常です」
医者の声が、水の底から聞こえるみたいに遠い。
私は、もう一度だけ、左手を見た。
赤子は、確かにこちらを向いていた。
目が、合った気がした。
その瞬間、胸の奥が、ひどく冷たくなった。
◇
私は結局、痛みを感じると嘘をつき、痛み止めの薬をもらって帰宅した。
結局、赤子の原因はわからなかった。
正直に言おうか迷ったが、医者に触られるたびに左手がうずいたのだ。
赤子が目でやめてほしいと訴える気がしてならなかった。
それに幻覚だと思うと幾分か気が楽になった。
そう考えると、不思議と安心した。
この子は何も悪くない。
私はその日の夜、ずっと左手を眺めていた。
そして、数カ月ぶりに深く眠ることができた。
◇
翌日、私は何事もなかったかのように会社へ向かった。
「昨日、無断欠勤だよな?」
低い声が頭の上から落ちてきた。
私は反射的に背筋を伸ばす。
「すみません。体調が――」
「……あ……ああ」
うめき声のような。どこか低くうなる声が聞こえた気がした口を止める。
聞き耳を立てるが気の所為みたいだ。
「……聞いてる?」
上司が眉をひそめる。
私は慌てて頷いた。
「はい、すみません」
「……な、なんで」
まただ。
やはり気の所為ではない。
どこからか声が聞こえる。
喉がひくりと鳴る。
上司が一歩近づいた。
香水と汗の混じった匂いが鼻を刺す。
「……く……臭い」
私の声ではない。
いや、私の声だし、私が思ったことだ。
だが。
私は何も発言していない。
私は息を止めた。
自然と視線が、ゆっくりと、左手へ落ちた。
声の聞こえた方だった。
「……うるさい」
今度は、はっきりと分かった。
確実に左手から声がした。
左手から目を離せないでいるとまたたしなめられる。
「……反省してるの?」
上司の声が遠い。
「……反省するわけないだろ」
全く同意だ。
だが、そんなこと言えるはずがない。
私は歯を食いしばった。
口が勝手に動きそうになる。
「……申し訳ありません」
限界だった。
私は頭を下げると、そのまま踵を返した。
「すみません、少し……」
返事を待たずに歩き出す。
廊下を抜ける。
トイレの扉を押し開け、個室に飛び込んだ。
鍵をかける。
肩で息をしながら、左手を持ち上げる。
赤子は、いた。
だが、昨日と違う。
眉間に、溝があった。
私が毎朝、鏡で見ている、あの皺。
口元が、わずかに歪む。
そして、声がした。
「パパ……会いたかったよ」
今度は、もう疑いようがなかった。
それは、完全に――
私の声だった。
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