第3話 十秒で掴むもの、十秒で隠すもの

 カーテンの隙間から差し込む朝の光が、久我蒼の机の上に置かれたノートパソコンを白く照らしている。  画面の中では、複雑なチャートの線が生き物のように脈打ち、音もなく数値を更新し続けていた。


 FXを始めてから、数ヶ月が経過していた。


 蒼の口座残高は、順調に、いや、異常なほどの安定感を持って増加していた。  彼は無闇にトレードを繰り返したりはしない。


一週間のうちに数回訪れる、相場が大きく動く「重要指標」の発表時。  その瞬間だけに狙いを定め、十秒先の確定した未来を見て、確実に利益を刈り取る。  それは投資というよりも、決まった時刻に果実を収穫する農作業に近かった。


「……今日は、大きいな」


 蒼はカレンダーアプリの赤い丸を見つめ、独りごちた。  今夜は、複数の重要指標の発表が重なる「スーパーチューズデー」だ。  市場のボラティリティ(価格変動の激しさ)は最高潮に達するだろう。


 彼は深く息を吸い込み、マウスに手を添えた。


(見たい)


 心の中で静かにスイッチを入れる。  視界の端に、十秒後の世界がふわりと重なる。


 今回は、単なる「上がる」「下がる」ではない。  発表の瞬間に鋭く噴き上がり、一度大きく反落してから、再び上昇して安定するまでの複雑な乱高下が、鮮明な映像として脳裏に焼き付いた。


 蒼は指先をキーボードの上で走らせる。  瞬時に計算を終えていた。  変動幅(レンジ)が大きい。これなら、一度のエントリーで往復の利益を取れる。  ロット数を計算し、逆指値を入れる手順まで、頭の中で完璧な台本を組み上げる。


「……一発で、取る」


 カウントダウンがゼロになる。  世界中の投資家が固唾を飲んで見守る中、チャートが火を噴いたように跳ね上がった。


 カチッ、カチッ。


 蒼は表情一つ変えず、買い注文と決済注文を流れるように入力した。  十秒という永遠にも似た時間の中で、彼は誰よりも速く、誰よりも正確に市場の波を乗りこなす。  一度目の利確。  反落の底で再エントリー。  そして、十秒が終わる瞬間に全決済。


 画面上の残高表示が、音もなく更新された。  今回確定した利益は、これまでの積み重ねを遥かに上回る額だった。


「……ふぅ」


 ヘッドホンを外し、天井を仰ぐ。  口元に、自然と笑みがこぼれた。  種銭は十分に育った。雪だるま式に増えていく数字を見るのは、想像していた以上に刺激的で、中毒性のある快感だった。


 だが、ふとスマホの通知音が鳴り、現実に引き戻される。  銀行アプリからの入金通知だ。  画面に表示された桁数を見て、蒼の冷静な思考回路に警告灯が点滅した。


(……これは、まずいな)


 彼は以前立てていた計画を思い返す。  『親の扶養控除の及ぶ範囲内で、お小遣い稼ぎとして目立たずにやる』。  それが、平穏な高校生活を守るための安全策だったはずだ。


 しかし、今回の利益で、年間の所得ラインを軽く超えてしまうことが確定した。  扶養から外れれば、親の税負担が増える。健康保険料も変わる。  もはや「子供の勉強」という言い訳で誤魔化せる規模ではない。


 蒼は腕を組み、沈黙した部屋で思考を巡らせた。  ここでブレーキを踏むべきか?  取引を控え、年末まで調整して、「良い子」の枠に収まるべきか?


(いや、違う)


 彼は首を横に振った。  十秒先の未来が見える。その力を使って、人生を変えると決めたはずだ。  ここで足踏みをしていたら、いつまで経っても「そこそこの高校生」のままだ。  欲しい機材がある。試したいことがある。未来を切り開くための資金が必要だ。


「……扶養が外れても、構わない」


 蒼は決断した。  能力のことは、死んでも言わない。それは絶対の掟だ。  だが、「稼いでいる」という事実まで隠す必要はない。


 親に迷惑をかけるのが嫌なら、その迷惑を上回るメリットを提示すればいい。  自分が経済的に自立し、むしろ家計を助ける側に回れば、誰も文句は言わないはずだ。  隠れてコソコソやるよりも、堂々と責任を取る方が、長期的には「自由」への近道になる。


          ◇


 週末。  蒼は母を誘って、駅前の少し良いレストランでランチをしていた。  食後のコーヒーが運ばれてきたタイミングを見計らい、蒼は切り出した。


「お母さん、ちょっと話があるんだ」


 母がカップを置き、怪訝そうな顔をする。


「何? 改まって」


「前に話した、金融経済の勉強のことなんだけど」


 蒼は鞄から、自作の収支報告書(もちろん、不自然すぎないように調整したもの)を取り出した。


「実は、思っていた以上にうまくいってしまって……このままだと、お父さんの扶養から外れるくらいの利益が出そうなんだ」


「えっ!?」


 母が目を見開く。


「そんなに……? あなた、無理な賭け方をしてるんじゃないでしょうね?」


「ううん、違うよ。運が良かったのもあるけど、ちゃんとリスク管理をして、コツコツ積み上げた結果なんだ」


 蒼は落ち着いた口調で、あくまで「真面目に取り組んだ成果」であることを強調した。  そして、用意していた言葉を続ける。


「だから、ちゃんと税金の手続きをしようと思ってる。扶養から外れることで家計に負担がかかる分は、僕が稼いだお金から家に入れるよ。それ以上に、生活費の足しにもしてほしい」


 母はしばらく書類と蒼の顔を交互に見つめていたが、やがて深いため息をついた。  それは呆れではなく、息子の成長に対する戸惑いと、少しの安堵が混じったものだった。


「……本当に、あなたはいつの間にそんな……。お父さんが聞いたら腰を抜かすわよ」


「ごめん、驚かせて。でも、変なことや危ないことは絶対にしてないから。それは信じてほしい」


「わかったわ。蒼がそこまで考えて言ってるなら、信用する。……でも、学生の本分は忘れないでね」


「うん、約束する」


 母は苦笑しながら、冷めかけたコーヒーを口に運んだ。  蒼は胸の奥で、重荷が一つ取れたのを感じた。  嘘はついている。能力のことは秘密のままだ。


だが、「責任を持って稼ぎ、家に貢献する」という契約は、彼に社会的な隠れ蓑を与えてくれた。これで、家の中で堂々とパソコンに向かうことができる。


          ◇


 数日後、蒼は税務署の窓口にいた。  開業届と青色申告承認申請書。  高校生の自分が、個人事業主として登録するための手続きだ。


 窓口の職員は少し驚いた様子だったが、淡々と処理を進めてくれた。  専門用語が並ぶ書類にサインをするたび、画面の中の数字が、法的な裏付けを持った「現実の資産」へと変わっていくのを感じた。


(これで、いい)


 税金を払う。確定申告をする。  それは面倒な義務だが、同時に「怪しまれずに大金を持つ」ための最強の防具でもある。


彼は「賢者」であることを選んだ。  コソコソと隠し財産を作る小悪党ではなく、社会のルールを利用して、誰にも文句を言わせない立場を築く。


 手続きを終えて税務署を出ると、春の風が心地よく頬を撫でた。  通帳の数字は、すでに次のステージへ進むための準備ができている。


 蒼はスマホを取り出し、以前からチェックしていた通販サイトのウィッシュリストを開いた。  高性能なゲーミングPC、マイク、キャプチャーボード。  動画配信に必要な機材の数々。


「……次は、こっちだな」


 FXで得た資金は、あくまで手段だ。  目的は、この「十秒」の力を使って、もっと広い世界へ、もっと面白い場所へ行くこと。


 蒼は小さく笑い、足取り軽く歩き出した。  秘密を守り、嘘をつき、責任を負う。  その全てを飲み込んで、久我蒼の日常は、彼自身が設計した未来へと確実に進み始めていた。

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