第2話 十秒の「エントリー」
雨上がりの朝。
湿ったアスファルトの匂いが鼻孔をくすぐる中、久我蒼は目覚めるとすぐに枕元のスマートフォンを手に取った。 ロック画面を解除し、カレンダーアプリを開く。
画面には、来週の日付に小さな「赤い丸」が付けられていた。
それは、彼にとっての「実戦開始」の予定日だ。 その日の午後、為替相場に大きな影響を与える重要な経済指標の発表がある。 だが、今の蒼にはまだ、その戦場に立つ資格がない。
(まずは、土台を作らなければ)
制服に着替えながら、今日やるべき「ミッション」を反芻する。 未成年である彼がFXの口座を開設するには、親権者の同意が不可欠だ。 ここをクリアしない限り、十秒先の未来が見えても一円にもならない。
校門へと続く道すがら、友人たちが昨夜のテレビ番組や部活の話をだらだらと話している。その平和な雑音を聞き流しつつ、蒼は缶コーヒーのプルタブを開けた。
苦い液体を喉に流し込みながら、脳裏では冷徹な計算が走る。 親を説得するためのロジック。提示すべきメリットと、隠すべきリスク。 能力のことは絶対に伏せたまま、正当な手続きとして認めさせなければならない。
「よう、蒼。今日放課後、一緒にゲーセン行かないか?」
不意に肩を叩かれ、蒼は思考の海から引き戻された。 振り返ると、悪戯っぽい笑みを浮かべた倉田が立っていた。
「……悪い。今日はちょっと、大事な用事があるんだ」
蒼は申し訳なさそうな顔を作って首を振った。 嘘ではない。 今日の放課後こそが、彼の人生を左右するプレゼンテーションの本番なのだから。
◇
夕食後のリビング。 テレビのバラエティ番組の音が流れる中、蒼は意を決して母親に向き合った。 テーブルの上には、昼休みに図書室で作成した「学習計画書」と、印刷した口座開設の申込書が置かれている。
「お母さん、ちょっと相談があるんだ」
蒼は努めて真剣な、しかし子供らしい熱意を含んだ声色を作った。 母が怪訝そうに眉を上げる。
「何? 改まって」
「実は、学校の探究学習の一環で、実社会の金融経済についてレポートを書こうと思ってるんだ。本を読むだけじゃなくて、実際に少額で運用して、市場の動きを肌で感じてみたくて」
これが、蒼が用意した「建前」だ。 単なる金儲けではなく、あくまで「学習」であるという大義名分。
「FX……? 危ないんじゃないの? ニュースで大損したとか聞くけど」
予想通りの懸念。 蒼は慌てず、用意していた資料を広げた。
「うん、リスクはあるよ。だからこそ、こうやってルールを決めたんだ」
彼が指差したのは、自作の資金管理ルールの項目だ。 『レバレッジは低く抑える』『お小遣いの範囲内で行う』『学業に支障が出たら即中止する』。 親が安心しそうな文言が並んでいる。
「父さんの書斎にあった経済の本も読んだよ。将来のために、今からお金の動きを勉強しておきたいんだ。……ダメかな?」
最後に少しだけ、上目遣いで懇願する。 母は資料と蒼の顔を交互に見つめ、やがて深くため息をついた。
「……本当にもう。変なところで真面目なんだから」
母は呆れたように笑い、ペンを手に取った。
「わかったわ。でも、約束よ。無理な使い方は絶対にしないこと」
「うん、約束する。ありがとう、お母さん」
同意書にサインが書き込まれる瞬間、蒼は胸の内で小さくガッツポーズをした。
(第一関門、突破)
賢さとは、時に親さえも欺き、安心させるスキルのことだ。 罪悪感が皆無なわけではない。だが、この嘘はいずれ、家族を守るための力に変わるはずだ。
◇
それから数週間後。 審査と郵送の手続きを経て、ついに蒼の手元に口座開設完了の通知が届いた。
そして今日。 午後三時、蒼は自室に籠もっていた。 机の上にはノートパソコン。画面にはリアルの為替レートが薄く光り、チャートが心電図のように刻一刻と波形を描いている。
指標発表まで、あと一分。
ヘッドホンを装着し、外の世界の雑音を遮断する。 聞こえるのは、自分の呼吸音と、PCのファンの回る音だけ。 入金したての「種銭」は、お年玉や貯金をかき集めた虎の子の五万円だ。
(絶対に、負けられない)
あと5秒。 蒼は深く息を吸い込み、マウスに手を添えた。
(見たい)
念じた瞬間、視界の端に「答え」が現れた。 現実の風景の上に重なる、十秒後の未来の映像。
そこには、一本のローソク足が形成される過程が、早送りのようにはっきりと映し出されていた。 方向性は、強い「買い(ロング)」。
発表の瞬間に価格が一気に跳ね上がり、鋭い陽線を描く。 その後、一度短く値を下げてから、再び上昇して十秒が終わる。
まるで教科書に載っている「指標発表時の典型的な初動」そのものだった。 重要なのは、その「頂点」と「押し目」が、十秒という時間枠の中にきれいに収まっていることだ。
(……いける)
蒼は瞬時に計算を走らせた。 レバレッジは抑え気味に。資金の二パーセントをリスクに晒す。 注文が殺到して約定価格が滑る「スリッページ」を考慮しても、十分にプラスになる。
能力を使えば、その後六十秒間は何も見えなくなる「クールダウン」が訪れる。 だから、チャンスは一度きり。 この一発で、最大利益をもぎ取る。
(無駄撃ちは許されない)
自分に言い聞かせるように奥歯を噛みしめる。
カウントダウンがゼロになる。 市場が一瞬、息を呑むように静まり返った。
その次の瞬間、波が来た。 画面上の価格が、彼が見た未来の通りに激しく跳ね上がる。
カチッ。
蒼は冷静にエントリーボタンをクリックした。 指先は震えなかった。 十秒間、自分だけが世界の結末を知っているという絶対的な優位性が、恐怖を消し去ってくれる。
チャートは、まるで蒼の意思に従うかのように伸びていく。 含み益の数字が赤から青に変わり、桁が増えていく。
頭の中で、秒針を刻む。 二、三、四……。
残り時間に合わせて利確ポイントを修正する。 あと三秒。 ポジションの半分を決済。
(よし)
心の中で静かに祝杯を挙げる。だが、声には出さない。 これはゲームではない。現実の闘争だ。
十秒の終わり際、チャートが一瞬の戻りを見せた。 その隙を逃さず、蒼は残りのポジションをすべて決済した。
画面に、確定した利益の数字が表示される。 千円にも満たない、小さな額。
「……ふぅ」
ヘッドホンを外し、椅子に深くもたれかかる。 額にうっすらと汗が滲んでいた。
額としては、まだ小さい。 けれど、これは確実に「未来」を変えるための大きな一歩だ。 自分の力で、世界から富を切り取ったという事実。 胸の奥に、じわりと熱いものが広がる。嬉しさと、そして誰にも言えない秘密を抱える孤独感が、ない交ぜになった複雑な感情。
取引終了と同時に、クールダウンの時間が始まる。 視界はクリアになり、ただの現実が戻ってくる。 再び「見たい」と念じても、何も映らない空白の一分間。 それは彼にとって、成功の代償であり、冷静さを取り戻すための試練でもあった。
蒼はその間に家計簿アプリを立ち上げ、今回の利益を入力した。 この金は、遊びに使うわけではない。 次の投資へ、そして将来のための基盤へと回す。
親の扶養控除の範囲を超えないよう、雑所得の計算も忘れない。 これもまた、彼が密かに進めてきた「現実対策」の一部だった。
◇
夕食の食卓。 味噌汁の湯気が立つ向こうで、母が何気なく尋ねてきた。
「そういえば蒼、例の投資の勉強はどう? 無理してない?」
蒼は箸を止めることなく、自然な笑みを浮かべて首をかしげた。
「うん、ぼちぼちかな。今日はちょっとだけプラスになったよ。数百円だけどね」
「あら、すごいじゃない。でも、深追いはしちゃだめよ」
母は安心したように微笑み、テレビのニュースに視線を戻した。 蒼の胸の中には、本当の計画がそっとしまわれている。 誰にも見えない、秘密の通帳だ。
二日後。 蒼はノートを開き、次の計画を練っていた。 市場が荒れやすいこれから数週間のうちに、数回だけ能力を使って利益を確定させる。 クールダウンを見越したスケジュール管理。重要指標の日取り。家庭の行事とのバッティング回避。 すべては、紙の上のルート図のように整理されていた。
しかし、勝利の味と共に、別の感覚も芽生え始めていた。 それは「イレギュラー」への恐れだ。
十秒先は完璧に見える。 だが、その先の世界は依然として不確実だ。 約定が遅れるシステムトラブル、突発的なニュース、あるいは自分の操作ミス。 自分だけが見えているという優越感は、一歩間違えれば慢心に繋がる。
それに、人は必ず「結果」を問う生き物だ。 利益が増えれば、羽振りが良くなれば、周囲は必ず理由を知りたがる。 税務署、銀行、そして家族。 説明がつかない金は、身を滅ぼす火種になる。
(慎重に、もっと慎重に)
蒼は改めて、自分自身に誓った。 能力を秘密のままにしつつ、現実を確実に変えていく。 そのためには、完璧な「演出」が必要だ。
◇
放課後の校舎裏。 倉田と並んで自動販売機のジュースを飲んでいると、彼がふと言った。
「そういやお前、こないだの英語のテストもヤマ勘当たってたよな。本当に運がいいよなあ、お前」
蒼は飲み終わった缶を握りつぶし、目を細めて空を見上げた。
「……まあね。そう見えるだけさ」
内心では、次にいつ「見たい」のスイッチを押すかを計算している。 十秒という短い時間の中に、無限の可能性が詰まっている。 それをいつ、誰にも気づかれずに切り取るか。
蒼の横顔に、小さな、しかし確固たる決意が灯った。
その夜、ベッドに入る前、彼はノートのカレンダーに新しい赤丸を書き込んだ。 次の大きな発表日。次に能力を使うべき瞬間。 そして、その横に小さな文字で注釈を添える。
『秘密厳守』 『資金は段階的に移動』 『家族の日常を壊さない』
それは、十秒先の世界を覗き見て、今を設計する者だけの、静かな誓いだった。
蒼の戦術はまだ始まったばかりだ。 FXという荒海に、小さな筏で漕ぎ出したばかり。 思わぬ大波が来ることもあるだろうし、秘密を守るための綱渡りはこれからも続く。
それでも、蒼は知っている。 十秒先に確実な道が見えている限り、彼は迷わずそれを選び、歩き続けることができると。
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