クソみたいな世界を変える歌

三角海域

クソみたいな世界を変える歌

夜の街角で、自販機だけが熱を持っていた。


俺はポケットの小銭をかき集め、投入口に落とす。「あたたかい」のボタンを押すと、ガコン、と缶が落ちる。


取り出した缶コーヒーが、手袋をしていない素手をじわりと温める。俺はプルタブに指をかけたまま、少し離れた広場に目をやった。


そこに、彼女がいた。


アコースティックギターを抱え、小さなアンプの前に立つ。通行人はゼロ。それでも彼女は、満員のライブハウスにいるかのように歌っている。まっすぐ前を見据える目。かすかに揺れる体。指先から紡がれる音の一つ一つが、薄汚れた街角を別の何かに塗り替えようとしていた。


俺はプルタブを開けなかった。缶を両手で包み、その熱を感じながら、自販機の陰で彼女を見守る。


バイト先の居酒屋で染みついた油の臭いが、自分の体から立ち上ってくる。臭いはシャワーを浴びれば消えるが、まとわりついた疲れは流しきれない。


だが、彼女の作り出す音は、体に染みついた疲労を少しばかり癒してくれる。


歌われているのは、彼女のオリジナル曲だった。何度も聴いているのに、タイトルは知らない。


どこか不器用で、でも真っ直ぐな願いを、アコースティックギターの素朴な音色と共に歌いあげる。いい歌だ。素直にそう感じた。


「ずいぶん暗い歌だな」


サラリーマン風の男たちが、数人で通りかかる。スーツは乱れ、足取りもおぼつかない。彼らは彼女の前で立ち止まり、遠慮のない笑い声を上げた。


「もっと流行ってるのやってよ」

「そうそう、盛り上がるやつ」


彼女の指が止まった。


張り詰めていた表情が、一瞬で崩れる。プロフェッショナルの仮面が剥がれ落ち、そこに現れたのは、ただの怯えた少女の顔だった。


俺の手の中で、缶コーヒーの熱が急速に失われていくような気がした。実際に温度が下がったわけじゃない。でも確かに、何かが冷めていった。


気づけば、自販機の陰から踏み出していた。酔客たちの間を無言で割り、彼女の前に立つ。男たちが俺を見て、興を削がれたように舌打ちをして去っていった。


静寂が戻る。


俺は彼女を見た。彼女も俺を見上げてくる。その目には戸惑いと、わずかな警戒が混じっていた。


「あの……」


彼女が口を開きかけた。俺は何も言わず、手の中で少しぬるくなった缶コーヒーを差し出した。彼女の冷え切った指先が、それを受け取る。


「ありがとう、ございます」


小さな声だった。歌っていたときの堂々とした響きは、どこにもない。


「いつも聴いてる」


自分でも驚くほどぶっきらぼうに俺はそう言った。


「え?」


「自販機の横。いつもあそこにいる」


彼女の目が少し見開かれた。それから、ばつが悪そうに視線を落とす。


「……気づいてました」


「は?」


「いつも同じ時間に来るから」


俺は言葉を失った。見ていたつもりが、見られていた。自販機の陰に隠れているつもりで、とっくにバレていた。急に恥ずかしさがこみ上げてくる。


「別に、怪しいとかじゃなくて」


彼女が慌てたように付け加えた。


「聴いてくれてるんだって、嬉しくて」


言葉を探すように、彼女は缶コーヒーを両手で包み直した。


「さっきの人たちみたいなの、たまにいるんです。でも普段は気にしないようにしてて。今日はなんか、駄目だった」


彼女の声が少しかすれた。


「情けない」


「そんなことない」


思わず口をついて出た言葉だった。彼女が顔を上げ、少しだけ目を細めた。笑ったのかもしれない。


「君の歌を聴くと、なんだか楽になる。だから、感謝してる」


彼女はきょとんとした顔をした。それから、今度こそはっきりと笑った。


「ありがとうございます。なんだか、救われた気分です」


少しだけ、夜の空気が和らいでいた。


「でも、そんな大層なもんじゃないですよ、私の歌」


「大層かどうかは関係ない。俺にとってはそうだってだけだ」


彼女は俺が渡した缶コーヒーをアンプの横に大事そうに置き、再びギターを構えた。


「じゃあ、リクエストいいですか」


「は?」


「お礼です。どんな曲でもいいですよ。弾ければ、ですけど」


俺は少し考えた。


「……さっきの続き」


「さっきの?」


「邪魔されたろ。最後まで聴いてない」


彼女は一瞬きょとんとして、それから照れたように笑った。


「あれ、私のオリジナルなんですけど」


「構わない。あれが聞きたいんだ」


彼女は何か言いかけて、やめた。代わりに小さく頷いた。指が弦に触れる。


静謐なアコースティックサウンド。一音一音が、夜の空気を震わせながら広がっていく。


俺は自販機の陰に戻り、開けたばかりのコーヒーを口に運んだ。熱い液体が喉を通る。


どうしようもない現実を、美しいものだと思わせてくれる力が彼女の歌にはあった。


最後のコードが夜に溶けていく。


余韻が、冷たい空気の中で静かに消えた。


「……ありがとう」


呟くように言った。


聞こえたかどうかはわからない。でも彼女は、こちらを見てかすかに口角を上げた。


彼女がギターをケースにしまう。アンプの横に置いた缶コーヒーを手に取り、ダウンジャケットのポケットに深くねじ込んだ。


「また来てくれますか?」


彼女が訊いた。


「ああ」


「じゃあ、また」


そう言い、彼女は去った。


耳に残るギターの音。喉を通り過ぎたコーヒーの熱。「また」という言葉。クソみたいな一日の締めくくりにしちゃ上等すぎるように思える。


俺はポケットに手を突っ込み、歩き出した。

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クソみたいな世界を変える歌 三角海域 @sankakukaiiki

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