第2話「伽藍堂」
「あの日」の悪夢が、青年の頭の中にまた再生された。
何もかもが持ち出されてしまった部屋に、青年は佇んでいる。
価値のあるものは全て持ち出され、不要と判断されたものが打ち捨てられている部屋。
そこには数時間前まで、青年と共に働き、同じ夢を追いかけてきた仲間たちが住んでいた。
いや、いまだに住んでいるはずだった。
出張より戻った青年は、仲間と仕事の話をするためにその場所を訪れた。
新しいプロジェクトを熱く語り合うはずの場所が、突然に荒れ果てて「もぬけの殻」になっている。
その惨状を見つめている青年の中に、一つの言葉が思い浮かび、思わずつぶやいた。
青年 「夜逃げ……。」
「夜逃げ」という言葉以外当てはまらない、悲惨な光景がそこにあった。
なんの前触れもなく、突然に訪れた屈辱を青年は眺めている。
白昼夢を見るような感覚。
驚きよりも怒りよりも先に、ただ頭が真っ白になっていた。
「何も考えることができない」ということが、本当にこの世にある。
全く嬉しくない真実。
感情が理性を超えたことで身体は小刻みに震え、足が力を失い立っていられない。
これほどの衝撃を与えられたことはない、青年の長い人生の中でも。
しかもそれを施してきたのは、他でもない「身内」。
長年、信頼してきた仲間の犯行だった。
共に時間を過ごし、一緒に同じ目的に向かって働いてきた仲間。
労働でも、金銭でも献身し、青年はその仲間たちに尽くしてきた。
愛情さえも分け隔てなく、惜しみなく与えてきた。
夜逃げという形で「恩返し」されるような覚えは、全くなかった。
じっと空虚になった空間を見つめていると、彼らが居た頃の光景がオーバーラップする。
壁際に置かれていた長机と、その上に設置されたモニターとスピーカー。
椅子の先にはいくつかの録音機器が山積みされ、仲間たちの音楽作品の制作に役立っていた。
壁際にはネックハンガーが設置され、可愛らしいウクレレが飾られていた。
レッスンを受けにくる人々が座る小さなソファも、残像として蘇ってきた。
青年も仲間たちも皆、音楽家であった。
音楽を生業とし、演奏や指導をすることで生活の糧を得ていた。
今の時代、音楽で食べてゆくなど夢のまた夢だったが、協力し、場所を共有することで不可能を可能にしていた。
たくさんの音楽を愛する人が、毎日この場所を訪れていた。
大抵はギターやウクレレを習う人だったが、中には歌を歌う人も、彼らの伴奏を求めてやってきていた。
青年が作ったゆりかごに護られて、夢を育む環境がそこに出来上がっていた。
しかし今、青年の前に広がっているのは虚しい伽藍堂であり、人や家財と共にその「夢」までもが持ち去られていた。
悲しい気持ちが少しだけ青年の憤りを削っている。
小男 「なーんか、みんな出ていっちゃいましたね。」
思考を失って立ち尽くす青年の背後から、声をかける男がいた。
彼もまたこのコミュニティの一員であり、音楽で食べていくという夢を抱き、ここに参加した一人だった。
高校を途中で辞め、取り返しのつかない人生を選んでまで音楽に没しようとしていた彼を、青年は可愛がっていた。
青年 「これは、一体どういうこと?」
そう尋ねるだけで、青年は精一杯だった。
小男 「いや~、独立するとかって、なんか言ってたんですけど。それで今日ハイエースが来て、みんなで手伝って、引っ越しを。」
断片的な言葉の羅列に、彼の生い立ちが透けている。
青年にとっては、すべて初耳の情報だった。
青年 「で、君も手伝って、見送った。……なんで教えてくれなかったの?」
憤りが込み上げそうになるのを必死に抑え、青年は平静を装った。
小男 「えっ? ああ、まあ……はい……。」
きょとんとした表情で言葉に詰まる小男に、反省の色はなかった。
それは他責思考以前の、自己評価が高すぎる彼のいつもの反応だった。
学ばず、成長しない原因は、すでに人格に固定されている。
何を言ってもしょうがなく、青年は諦めのため息をついた。
青年 (誰も、自分の味方ではなかったのかな……。)
慕われていた、信頼されていたという感覚は、青年が勝手に抱いていた幻想だったのかもしれない。
どれほど環境を与え、言葉や行動で尽くそうとも、それは彼らの上に「恩」として積み重なってはいなかった。
彼らに向けた愛情は、最初から報われることのない無駄な投資だったのだ。
薄情な彼らは、浅はかな思考と行動しか持たず、富にも名声にも辿り着けない存在。
そんな人々に愛情を注ぐという間違を犯していたのは、青年の方だったかもしれない。
心に空虚が滲んでいた。
青年 (もう、辞めよう。おしまいだ……。)
青年は静かに覚悟を決めた。
「諦めた」と言ったほうが正確かもしれない。
長年育ててきたこの事業を終わらせる決断をした。
就職難に直面し、安定した生活や出世を諦めて選んだ音楽家として生きる夢、そしてそれを支えるための事業。
自分の手で放り出す日が来るなど、想像したこともなかった。
しかも、それを消し去ったのが他人の悪意であり、その「他人」が、自分の手で育んだ身内だったという事実。
人間の愚かさを痛感した青年は、同時にもう一つの決断を下した。
青年 (もう、誰にも手を差し伸べない。決して二度と。)
一瞬にして芽生えた人間不信の芽は急速に成長し、青年の中に深く根を下ろし、固定された。
まるで、悪夢の中に現れたハエトリソウのように。
青年 「君は、どうする?」
その問いには、怒りも期待も残っていなかった。
諦観に磨かれた声が、静かな室内を横切る。
返ってくる言葉は、青年には最初からわかっていた。
小男 「そうですね。自分だけ残ってもしょうがないし、自分も出てゆきます。」
薄情で軽薄なその答えが、誰もいない空間に落ちて、彼の人格を照らしている。
青年 「そうだね。その方がいいよ。」
青年は感情を隠し、穏やかな献身を装った。
その場に沈黙が満ちる。
言葉はもう交わされず、二人はそれぞれ無言のまま背を向けた。
気づいたときには、彼の気配もまた、その空間から消えていた。
電知電脳 真秀ろば @maholoba
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