第2話 私は、死者の時間に触れている
朝、目を覚ましたとき、私はしばらく天井を眺めていた。
白い。ひび割れ一つない天井。見慣れているはずなのに、どこか他人の部屋みたいだった。目を閉じて、昨日のことを思い出そうとする。
――思い出せない。
昨夜、何を考えて眠ったのか。
ベッドに入る前、何をしていたのか。
頭の中にあるのは、断片だけだった。検死室。冷たい蛍光灯。若い女性の遺体。そして、「死体は嘘をついている」という、自分の声。
それ以外が、すっぽりと抜け落ちている。
「……また?」
呟いた言葉が、ひどく自然に口をついた。
そのこと自体が、何より不安だった。
洗面所の鏡に映る自分の顔は、見慣れている。疲れているのもわかる。けれど、どこか他人行儀だ。私は自分の目をじっと見つめ、何かを思い出そうとした。
何も、返ってこない。
中央病院へ向かう道すがら、町の風景を眺める。霧坂町は、いつも通りだった。小さな商店街、配給所に並ぶ人々、すれ違う顔見知りたち。誰もが穏やかで、平和そのものに見える。
――だからこそ、違和感が際立つ。
この町は、壊れている。
それだけは、なぜか確信していた。
「灯」
背後から声をかけられ、振り返る。由利だった。彼女は少し気まずそうに笑いながら、私の隣に並ぶ。
「……大丈夫?」
その問いに、即答できなかった。
「何が?」
「記憶」
一瞬、足が止まる。
「……どこまで知ってるの?」
由利は、言葉を選ぶように視線を泳がせた。
「昨日の夜のこと、覚えてる?」
私は、首を横に振った。
由利は、小さく息を吐く。
「やっぱり」
「やっぱり、って……」
「前にも、同じことがあったの」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が重くなった。
前にも。
つまり、私は初めてじゃない。
「どれくらい?」
「……正確な回数は、知らない」
由利の声は低い。
隠している。というより、知らされていない。
「灯はね、死体の嘘を正すたびに、何かを失うの。主に、時間。昨日とか、一昨日とか……ときどき、もっと大きな塊で」
私は歩きながら、自分の手を見つめた。
「それを、止めたことは?」
「ない」
即答だった。
「止めようとしたことは?」
由利は、少し黙ったあとで言った。
「……ある。でも、できなかった」
病院に着くと、すぐに久我に呼ばれた。診察室は静かで、外の音がほとんど届かない。
「体調はどうだい?」
穏やかな声。
安心させるための、完璧な調子。
「記憶が、抜けています」
久我は、想定内だと言わんばかりにうなずいた。
「副作用だ。君の能力に、完全な制御法はまだない」
「能力……?」
久我は、私をまっすぐ見つめた。
「死体の時間に触れ、正しい死へと修正する力。町にとって、不可欠なものだ」
「私にとっては?」
問い返した瞬間、空気が少しだけ冷えた。
「代償はある。しかし、それ以上に君は多くを救っている」
「誰を?」
久我は、少しだけ微笑んだ。
「町を」
その言葉が、ひどく抽象的で、だからこそ不気味だった。
「灯。霧坂町はね、放っておけば崩壊する。死の時間が狂えば、因果が壊れ、連鎖的に事故や不整合が起きる。君は、それを食い止めている」
「そのために、私の記憶が削れる?」
「君自身が選んだことだ」
即答だった。
私は、息を詰めた。
「……覚えていません」
「そうだろうね」
久我は、淡々と言った。
「だからこそ、記録は残している」
「記録?」
「いずれ、君自身が辿り着く」
それ以上、彼は何も説明しなかった。
診察室を出たあと、私は由利と一緒に資料室へ向かった。目的は、昨日の検死記録の確認だった。
棚に並ぶファイルを眺めていると、不意に、見覚えのある背表紙が目に入った。
『検死補助記録・個人用』
無意識に、それを引き抜いていた。
中を開くと、そこには私の字があった。几帳面で、迷いのない筆跡。だが、書かれている内容に、私は息を呑んだ。
――三件目。
――今回も、記憶の欠落あり。
――由利は、気づいている。
ページをめくる。
――久我は、すべてを知っている。
――信頼は、条件付き。
「……由利」
彼女は、私の手元を見て、表情を曇らせた。
「それ、見つけたんだ」
「知ってたの?」
「……灯が、自分で作ったの」
胸が、締め付けられる。
私は、自分のことを信用していない。
だから、書き残している。
「ねえ、由利」
「なに?」
「私、何を疑うべき?」
由利は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「町そのもの」
その夜。
私は自室で、枕元のノートを開いた。
怖かった。
でも、開かなければならない気がした。
最初のページに、こう書かれていた。
――忘れる前の私へ。
――これは、保険だ。
ページをめくる指が、震える。
――信じてはいけない人間がいる。
――ただし、その名前は、今は書かない。
理由も、書かれていなかった。
代わりに、赤字でこう続いていた。
――次に消えるのは、もっと大事なものだ。
私は、ノートを閉じた。
胸の奥に、はっきりとした恐怖が残った。
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