死体が嘘をつく町で、私は何度も殺されている
ソラ
第1話 死体は、時間について嘘をつく
霧坂町では、死体が嘘をつく。
それがどういう意味なのか、最初は誰も理解できなかった。正確には、理解しようとしなかったのだと思う。理解してしまえば、この町がどれほど壊れているのかを認めることになるから。
霧坂町中央病院の検死室は、地下二階にある。かつては倉庫だったらしいその場所は、蛍光灯の白い光と、消毒薬の匂いだけが支配する閉じた空間だった。私はここで、ほぼ毎日、死体と向き合っている。
名前は霧坂灯。職業は看護師、ということになっている。検死医ではない。けれど、なぜか検死の場には必ず呼ばれる。それがいつから始まったのか、はっきりとは覚えていなかった。
ステンレス台の上に横たわる遺体は、若い女性だった。二十代前半。発見されたのは昨日の夜、川沿いの遊歩道。警察の発表では、事故死。足を滑らせて転落した、という結論になっている。
「……灯、どう?」
背後から声をかけてきたのは由利だった。彼女は私と同じ病院で働く同僚で、検死の補助も担当している。長い付き合いのはずなのに、なぜか「どこまで信用していいのか」を考えてしまう相手でもあった。
「まだ、触ってない」
私はそう答えながら、遺体を見下ろした。濡れた衣服はすでに着替えさせられている。顔色は悪くない。むしろ、眠っているように見えた。
おかしい。
理由は説明できない。だが、胸の奥に沈むような違和感だけは、はっきりとあった。私はそれを無視できない性分らしい、ということも、なぜか知っている。
手袋をはめ、女性の手首に指を当てる。脈は当然ない。次に首元、胸部、腹部へと視線を移す。死斑の位置、硬直の程度、皮膚の張り。どれも「死後二十四時間以上」を示している。
「……ねえ、由利」
「なに?」
「この人、何時ごろ亡くなったって聞いてる?」
「昨日の夜十時前後。通報が九時半だから、そのくらいって」
私は小さく息を吸った。
違う。
確信に近いものが、静かに浮かび上がってくる。
「胃、見せて」
由利は一瞬ためらったが、何も言わずに器具を取った。慣れた手つきで処置が進む。数秒後、彼女の手が止まる。
「……食べ物、残ってる」
「内容は?」
「パン。まだ、ほとんど消化されてない」
私は目を閉じた。
町の配給所でパンが配られるのは、朝八時。住民なら誰でも知っている。消化の進み具合から考えて、死亡時刻は――
「今朝、九時前後」
言葉にした瞬間、由利がこちらを見る。
「それ、おかしいでしょ。死斑も硬直も……」
「合わない。だから」
私は目を開け、遺体を見つめた。
「この死体は、嘘をついてる」
由利は何も言わなかった。ただ、唇を噛みしめる。その反応だけで、これが初めてではないとわかる。
霧坂町では、こういうことが起きる。
死後二日経ったはずの遺体が、数時間前の時間を示す。事故死とされた死が、別の顔を見せる。時間だけが、都合よくねじ曲げられている。
「灯……」
由利の声は低い。
「久我先生には、もう報告した?」
「ええ。すぐ来るって」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥がひやりとした。
久我。霧坂町中央病院の医師であり、町の医療を事実上すべて管理している人物。穏やかな笑みと、理路整然とした話し方。誰からも信頼されている――はずの存在。
足音が近づき、白衣の男が姿を現す。
「状況は?」
「事故死とされていましたが……」
由利が説明を始める。私はその横で、遺体から目を離さなかった。久我の視線が、私に向けられる。
「灯。君はどう思う?」
問いかけられた瞬間、言葉が喉に詰まった。
どう思うか。
そんなことは、最初から決まっている。
「……死亡時刻が合いません」
久我は眉をわずかに上げた。
「具体的には?」
「今朝九時前後。死因も、転落だけでは説明できない可能性があります」
沈黙が落ちる。
やがて久我は、小さく息を吐いた。
「また、か」
その一言で、すべてが確定した。
これは例外ではない。
想定内だ。
「君の判断を信じよう」
久我はそう言って、私に近づいた。その手が、私の肩に触れる。なぜか、ひどく冷たく感じられた。
「町の秩序を守るために、必要なことだ」
その言葉の意味を、私はまだ理解できていなかった。ただ、理解してはいけない気がしていた。
検死報告書を書き換える。
正しい死亡時刻と、正しい死因を記す。
その行為が、何を引き起こすのか。
なぜ、私だけがそれをできるのか。
考えようとした瞬間、頭の奥が、ずきりと痛んだ。
――考えるな。
誰かに、そう言われた気がした。
その日の夜。
自室のベッドで横になりながら、私は天井を見つめていた。
ここが自分の部屋だということはわかる。
けれど、なぜそう思えるのかは説明できない。
枕元の引き出しに、見覚えのないノートが入っていることにも、気づいてしまった。
開かなかった。
なぜか、今は触れてはいけないと感じたからだ。
その直感だけが、やけに鮮明だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます