第5話 鏡の向こう側

扉の向こう側から、肺を掻きむしるような激しい咳込みと、扉を叩く鈍い音が響く。だがそれも、数分と持たずに静まり返った。塩素ガスが充満した密室で、白金が生き延びる術はない。エマは防毒マスク越しに、重苦しい静寂を吸い込んだ。すべてを片付けた。自分を操り、偽物の人生を与えた男を、自らの手で「整理」したのだ。

勝利の陶酔が全身を駆け巡るはずだった。自分がオリジナルであるという確信が、失われた三年間を埋めてくれるはずだった。


その時、エマの作業着のポケットで、スマートフォンが震えた。白金から支給されたものではない、彼女が個人的に持っている端末だ。画面には「非通知」の文字。震える指で通話ボタンを押すと、スピーカーから流れてきたのは、あまりに聞き慣れた、自分自身の声だった。


『素晴らしい手際ね、エマ。酸と塩素の混合……古典的だけど、清掃員(クリーナー)であるあなたらしい、完璧な処置だわ』


「……誰? どこからかけているの」


エマの背筋に、氷柱を突き立てられたような戦慄が走る。電話の声は、くすくすと低く笑った。


『まだ気づかない? 右利きの加熱装置を壊した時にできた火傷。左利きのペンだこ。……あなたが「自分こそが本物だ」と思い込むためのピースは、すべて私が用意したのよ。白金を確実に殺し、なおかつ罪悪感を持たずに証拠を隠滅できる「最強の掃除屋」を仕立て上げるためにね』


「嘘よ。私は、あの研究所から逃げ出した記憶を……」


『それも書き込まれた「偽の記憶」よ、個体番号04号。オリジナルの神代エマは、そんなに泥臭い生き方はしない。私は今、あなたが掃除してくれた白金の個人資産を、スイスの口座に移し終えたところ。三年前、私は自分の死を偽装するためにあなたを作った。でも、白金という男は執念深かった。だから、彼を「処理」するための時限爆弾として、あなたを彼の傍に配置したの』


エマは目の前が暗転するのを感じた。自分が手に入れたと思っていた「真実」さえも、誰かが書いたシナリオの一部に過ぎなかった。壁に貼られた盗撮写真も、自分を追い詰め、覚醒させるための演出。ベッドに横たわる「左利きの死体」は、自分がオリジナルだと誤認させるための、ただの肉塊。


『あなたは自由よ、エマ。白金は死に、彼の会社もじきに倒産する。あなたは「神代エマ」として、これからも死を片付けながら生きていけばいい。……あぁ、そうそう。キッチンの紅茶缶にあったICチップの残骸、あれは私の研究データなんかじゃないわ。白金の汚職の証拠よ。あなたがそれを「見つけた」ことで、彼を殺す動機が完成した。……本当に、最高のクリーナーね』


通話が切れた。エマは力なく、その場に崩れ落ちた。鏡に映る自分の顔を見る。そこにあるのは、精巧に作られた人形の貌か、それとも。


(……いや、違う)


エマは不意に、自嘲気味な笑みを浮かべた。もし自分がただのクローンで、すべてがプログラミングされた行動だったとしたら。なぜ今、自分はこんなにも「晴れやか」な気分なのだろうか。

オリジナルのエマは、手を汚さずに資産を手に入れ、海外へ逃げた。だが、彼女は一生、自分が作った「自分と同じ顔の亡霊」に怯えて暮らすことになるだろう。

エマは立ち上がり、ゆっくりと防毒マスクを外した。部屋の換気システムを最大出力で稼働させ、ガスの残留を確認する。そして、プロの仕草で再びモップを手に取った。


「……掃除の依頼は、まだ終わっていないわ」


彼女は白金の死体を、まるで古い粗大ゴミを扱うようにテキパキと処理し始めた。死体も、偽の証拠も、自分を縛っていた過去も、すべてを無機質な「物質」として分解し、消し去っていく。

オリジナルのエマが望んだのは「証拠の隠滅」だったかもしれない。だが、今のエマが行っているのは、自分自身の人生からの「不純物の除去」だった。


数時間後。朝日が港区のタワーマンションを照らし出す頃、その部屋には塵一つ落ちていなかった。死体も、写真も、血痕も。そこにあるのは、誰も住んでいないかのような、静謐で美しい空間だけだ。

エマは最後に、テーブルの上に一つだけ残したアールグレイの缶に、マジックで短く書き添えた。


『ご依頼ありがとうございました。お代は、あなたの人生で清算済みです』


それは、依頼主である「自分自身」への決別状だった。


マンションを出たエマは、駅の喧騒の中に紛れ込んだ。彼女にはもう、帰る家も、帰るべき過去もない。だが、手に持った清掃用具のバッグは、どんな身分証よりも重く、確かな実感を彼女に与えていた。

たとえ作られた存在だとしても、この指先のタコも、薬剤で荒れた肌も、三年間磨き続けた技術も、すべては彼女自身が積み上げたものだ。

エマは雑踏の中で、ふと足を止め、ショーウィンドウに映る自分を見つめた。

そこには、三年前の土砂崩れで救われた「哀れな被害者」でもなく、誰かの身代わりの「クローン」でもない、一人のプロフェッショナルな女が立っていた。

彼女はわずかに口角を上げると、新しい「現場」を求めて、朝の光の中へと歩き出した。

鏡の向こう側の自分に、二度と視線を送ることはなかった。

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遺品整理屋の私が依頼されたのは、三年前の「私の死体」の掃除でした ソラ @Jasnon

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