第3話 残された違和感

「……おかえり、私」


耳元で囁かれたような錯覚に、エマは反射的に数歩飛び退いた。心臓が肋骨を突き破らんばかりに打ち鳴らされる。ベッドの上の「自分」は、相変わらず光のない瞳を天井に向けている。動いたのは声帯だけだ。よく見れば、死体の喉元に小さな黒いデバイスが貼り付けられていた。


「……録音装置」

エマは吐き出すように呟いた。金庫の扉が開いた振動を感知して再生されるように仕組まれていたのだ。悪趣味な演出に、エマの背中に冷や汗が伝う。だが、その恐怖はすぐにプロとしての怒りに上書きされた。死者を弄び、生者を嘲笑う。そんな「不浄」な真似をする輩が、エマは心底許せなかった。

エマは震える指先で、金庫から取り出したファイルをめくる。そこには驚くべき内容が記されていた。『新型認知機能置換手術』。それは、特定の技術や知識を脳に直接書き込み、最短期間で「理想の労働者」を作り出すための技術だった。


「私が遺品整理の技術を異常な速さで習得できたのは……書き込まれた情報だったから?」


ファイルによれば、オリジナルの神代エマは、極めて優秀な脳科学者だったという。彼女は自身の死期を悟り、自分の知識を保存するための器として、数体のクローンを作製した。その過程で「死体を完璧に処理する技術」を持つ個体が必要だと判断し、エマ——個体04号にその役割を与えた。

エマは洗面台へ向かい、鏡の前に立った。ファイルの記述を確認する。オリジナルの神代エマには、幼少期の事故による手術痕が首の後ろにあるはずだという。エマは震える手で自分の髪をかき上げた。

そこには、雪のように白い、滑らかな肌があるだけだった。


「私は、本物じゃない……」


鏡に映る自分の顔が、急に他人のもののように見えた。自分が積み上げてきた三年の月日は、誰かがプログラミングしただけの偽物の人生だったのか。絶望が足元から這い上がってくる。だが、その時、エマの脳裏に第二章で見つけた「違和感」が火花を散らした。


(待って。もし私がクローンで、あそこに横たわっているのがオリジナルだとしたら、なぜ彼女は左利きなの?)


ファイルには、オリジナルの神代エマが右利きであると明記されていた。この部屋の構造も右利き用だ。しかし、ベッドの死体には、左利き特有のペンだこがあった。

エマはキッチンに戻り、先ほどの「紅茶缶」を再び手に取った。中身の砂を、今度はシンクにぶちまけた。水で砂を洗い流すと、そこから黒いプラスチックの破片や、金色の金属片がいくつか現れた。

「これは……ICチップの残骸?」 砂だと思っていたのは、大量の電子基板を粉砕した屑だったのだ。エマはハッとして、死体の指先をもう一度確認した。左手中指のペンだこだと思っていた膨らみを、ピンセットで慎重に探る。


「……皮膚じゃない。埋め込まれている」


それは茧ではなく、皮膚の下に仕込まれた極小の記録メディアだった。エマはその瞬間、すべてを悟った。この部屋に散りばめられた「右利き用」の道具、自分と同じ顔の「左利きの死体」、そして「砂の紅茶缶」。これらはすべて、ある一人の人物を欺くための高度な罠だ。

その人物とは、今もこの部屋を監視カメラで見ているであろう、あの男——白金だ。

白金は、オリジナルの神代エマの知識を独占しようとしていた。だからクローンを管理し、実験を続けさせていたのだ。だが、オリジナルのエマは、白金の裏切りを予見していたのではないか。

エマは急いでリビングの掃除を再開するふりをした。白金を油断させる必要がある。彼女はモップを動かしながら、頭の中でパズルを組み立てていった。


(死んでいるのがオリジナルでもクローンでもないとしたら、あの中に横たわっているのは誰? そして、本物の神代エマは今、どこにいる?)


エマの視線が、再び壁一面の自分の写真に注がれた。そこには、仕事に没頭する自分の姿が冷徹に記録されている。だが、一枚だけ、他のものとは毛色の違う写真が混ざっていた。

それは、三年前の土砂崩れ現場。救出される直前の、泥まみれのエマを捉えた写真だ。

写真の中の彼女は、右手で何かを強く握りしめていた。

エマは自分の右手の手のひらを見つめる。そこには、自分でも気づかなかったかすかな火傷の痕があった。それはファイルを握りしめていた跡ではなく、熱い「何か」を掴んだ痕だ。


「……思い出した。私はあの日、助け出されたんじゃない」


エマの脳裏に、断片的な映像がフラッシュバックする。燃え盛る研究所。崩落する土砂。そして、自分を逃がそうとしていた、もう一人の自分。


「私は、逃げ出したんだ。あの場所から」


その時、玄関のオートロックが解除される音がした。

設定された午前6時まで、まだ一時間以上ある。


「……進捗はどうだい、エマ。掃除は終わったかな?」


背後から聞こえてきたのは、白金の、あの穏やかで不気味な声だった。

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