第2話 鏡写しの亡霊

白金の冷ややかな声が、シャンデリアの光に満ちた豪華なリビングに不協和音を響かせる。エマの心臓は早鐘を打っていたが、職業病とも言える冷静さが、脳の片隅で必死に状況を分析し始めていた。


「……社長、説明してください。この死体は何ですか。なぜ、私と同じ顔をしている?」

「君の仕事は『整理』することだ、エマ。質問に答えることではない」


白金はゆっくりと歩み寄り、ベッドの傍らに置かれた死亡診断書を指先でなぞった。


「この部屋にあるものはすべて、君の過去であり、君の正体だ。警察を呼ぶのも勝手だが、そうなれば君は『存在しない人間』として処理されることになる。戸籍も、記憶も、名前すらない君を、誰が守ってくれると思うかね?」


白金の言葉は、鋭いメスのようにエマの拠り所を切り裂いていく。三年前、土砂崩れの現場で拾い上げ、仕事を与えてくれた恩人の面影はどこにもなかった。


「明日の朝、六時。それまでにこの部屋を『完全』に消しなさい。ゴミ一つ、髪の毛一本残さずに。それができれば、君に次の人生を与えよう」


白金はそれだけ言い残し、エマに背を向けて玄関へと向かった。重厚な扉が閉まる音が、この世との決別のように響いた。


一人残されたエマは、深く呼吸を整えた。パニックは死を招く。プロのクリーナーとして、まずは目の前の「モノ」を観察することにした。

エマは腰のポーチから使い捨てのニトリル手袋を取り出し、装着する。まずはベッドの死体だ。

顔立ちは鏡を見るように自分と同じ。だが、遺品整理屋としての目は、解剖学的な違和感を逃さなかった。死体の左手中指の付け根に、硬いペン茧がある。


(……左利き?)


エマは自分自身の右手を見つめる。彼女は右利きだ。三年前の事故以前の記憶はないが、ペンを持つのも箸を使うのも、自然と右手が出る。

次にエマはキッチンへ向かった。そこには、彼女が愛飲しているブランドと同じアールグレイの紅茶缶が並んでいた。棚を開け、ハサミや包丁を確認する。すべて右利き用の仕様だ。 部屋全体の設えは「右利き」の人間向けに作られている。しかし、ベッドに横たわる「自分と同じ顔の女」は「左利き」だった。

エマは紅茶缶の一つを手に取った。ずっしりと重い。だが、蓋を開けた瞬間、彼女の眉がかすかに跳ねた。 中に入っていたのは、茶葉ではなかった。


「……砂?」


さらさらとした、無機質な灰色の砂。すべての缶を確認したが、中身はすべて同じ砂にすり替えられていた。高級ブランドの缶の中に、無価値な砂が詰まっている。この部屋そのものが、精巧に作られた「偽物」のように思えてきた。


エマはリビングに戻り、壁一面の写真をはがし始めた。自分の行動を記録した無数の写真。それを一枚ずつシュレッダーにかけていく。

作業を進めるうちに、彼女はある事実に気づいた。写真の中の自分は、常に「何か」を探しているような顔をしていた。そして、どの写真も特定の角度から撮られている。

カメラの設置場所を特定するため、エマは天井の火災報知器やコンセントの隙間を点検した。

「見つけた……」

クローゼットの奥、不自然な隙間に埋め込まれていたのは、最新式の小型金庫だった。テンキー式のロックがかかっている。

エマは指先を止めた。暗証番号。心当たりはない。だが、もしこの部屋の主が自分を模した存在、あるいは自分自身なのだとしたら。 彼女は、病院で決めた自分の「誕生日」——土砂崩れから救出されたあの日を打ち込んだ。


カチリ、と電子音がして、扉が開いた。


中には、分厚い一冊のファイルが収められていた。表紙には、見覚えのあるロゴマーク。白金が経営する『ホワイト・アーク』の親会社にあたる、巨大医療グループの紋章だ。


ファイルを開くと、そこには「神代エマ」という検体の記録がびっしりと記されていた。


【新型認知機能置換手術:経過報告書】

【被験者:クローン個体04号】

【目的:オリジナル人格のバックアップおよび、生活習慣による人格定着の実験】


ページをめくる手が震える。そこには、エマがこの三年間で「整理」してきた現場のリストまでが、実験データとして記載されていた。

エマが「死」に引かれ、凄惨な現場でも平然としていられたのは、彼女の性格のせいではなかった。そうなるように、脳を「整理」されていたのだ。


「私は……ただの、バックアップだったの?」


その時、足元でカサリと音がした。

ベッドの死体の手が、わずかに動いたように見えた。

エマは息を呑み、ゆっくりとベッドへ視線を戻す。死んでいたはずの「自分」の目が、薄らと開いていた。

だが、その瞳には光がない。死後硬直が始まっているはずの身体が、機械的な動きでエマの方を向く。

死体の口が、かすかに動いた。


「……おかえり、私」


それは、エマ自身の声よりも、ずっと深く、冷たい響きだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る