猫の手は小さい
目を閉じると、記憶はさらに奥へ沈んでいった。
まだ、私たちが幼かった頃のこと。
あの頃の私は、小学校に上がるかどうか、そんな年だったと思う。
私たちは、学校へは行っていなかった。
朝になってもランドセルを背負うことはなく、代わりに、梟の舎の床を歩いていた。
店の中は、今よりも少しだけ広く感じた。
それはきっと、私たちが小さかったからだ。
『それ、そっちじゃないよ』
棚の前で、小さな声がした。
振り向くと、彼女……朔が、箱の前にしゃがみ込んでいた。
中身は軽い。爪や、小さな骨。子どもが運べる程度のものだけ。
『こっち。順番、決まってるから』
『……分かってる』
私はそう返しながら、箱を置き直す。
でも、正直なところ、順番なんてよく分かっていなかった。
『無理しなくていいよ』
朔は言った。
『大人の仕事だもん。私たちは、手伝い』
その言い方が、少し大人びて聞こえた。
私たちの「手伝い」は、本当に些細なことだった。
値札を並べる。布を畳む。床に落ちた木屑を拾う。
それでも、何かをしている、という感覚だけは確かにあった。
『ねえ』
作業の合間、朔が声をかけてくる。
『学校って、行ってみたい?』
突然の問いに、私は首を傾げた。
『……わからない』
『そっか』
それだけで、会話は終わった。
続きを期待していない声音だった。
朔は、店の奥にある猫のいる場所へ視線を向ける。
ガラス越しに、丸くなって眠る小さな影。
この間、近所で弱っていたところを見かけて店に連れてきたのだ。
名前はしずくと名付けた。
気持ちよさそうに眠るしずくを見ながら朔は口を開く。
『猫はね、学校行かなくていいんだよ』
『……いいの?』
『うん。できないことがあっても、怒られない』
少しだけ、羨ましそうに言った気がした。
私は、その横顔を見ていた。
同い年のはずなのに、彼女はどこか遠くを見ているようだった。
『澪はさ』
朔が、急に私の名前を呼ぶ。
『自分の手、好き?』
胸がきゅっと縮んだ。
『……わかんない』
『そっか』
また、それだけだった。
踏み込まない。押しつけない。
朔は、私の左側に回り込んで、代わりに箱を持った。
『じゃあ、使わなくていいよ』
簡単なことのように、そう言った。
『そのうち、必要になったらでいい』
幼い私には、その言葉の意味はよく分からなかった。
けれど、不思議と、優しく聞こえた。
彼女が大人びていたのはきっと、幼くして人間の闇を見てしまったからだろう。私とは違って冷静で、いつも頭の回転が速かった。
…………私はそんな彼女のことが友人として、家族として好きだった。
でも、彼女は
おばさまは遠くへ引っ越したのだと言っていたけれど、今となってはそれが嘘だとわかる。
あとから知った話では、彼女は脳に病を抱え、当時の技術ではどうしようもなかったそうだ。
「元気にしてるかな……」
誰に問いかけるわけでもなく、虚空に響き、そっと目を閉じた。
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