人の手を借りた。

 澪に「手を貸す」と言ったあと、僕はしばらく考え込んでいた。

 どうして、あんな言葉が自然に出てきたのかを。


 勢い、というわけじゃない。

 感情が昂ったわけでもない。

 ただ、目の前にある問題に対して、最適な選択肢を提示しただけ……

 自分では、そんな感覚だった。


 でも、それは少しおかしい。


 普通の人間なら、もっと迷う。

 相手の気持ちを気にしたり、倫理とか、常識とか、そういう曖昧で扱いづらいものを間に挟むはずだ。


 僕は、それをしなかった。


 澪が左手を嫌っている。

 それが彼女にとって、どうしようもなく本当のことだと分かった。

 なら、代替案を出す。

 拒否されたら、条件を変える。


 「あげる」が無理なら「貸す」。


 それだけの話だった。


 考えてみると、私はいつもこうだ。

 感情を否定しない代わりに、深入りもしない。

 相手がどう感じているかは理解するけれど、

 そこに自分の感情を重ねようとはしない。


 人間って、もっと感情的な生き物じゃなかったっけ。


 そんな疑問が、後から浮かんできた。


 澪は、私の言葉を聞いて戸惑っていた。

 当然だと思う。

 都合が良すぎるし、現実味もない。


 でも、それでも。彼女の中で、何かが揺れたのは、見ていて分かった。


 それを見て、私は安心した。

 なぜかは分からないけれど、

 「ちゃんと人間らしい反応だ」と思った。


 ……おかしいな。

 どうして私は、人間の反応を確認する立場にいるんだろう。


 ………あぁ、そうだ。


 僕は時々忘れてしまう。





 そもそも僕は人間じゃなかったかつて猫だったんだった。


 頭の中を探ると、色々な記憶が溢れ出してくる。


 楽しい思い出、辛い思い出、悲しい思い出……


 どれも間違いなく頭の中にあるのに、どれも僕自身のものでは無いと言っている。


 例えるならば他人の書いた物語を読んでいるような気分だ。

 これは、私の経験じゃない。私は読者に過ぎない。


 なのに、私の思考は、

 それらを自分の引き出しとして使っている。


 澪のことも、同じだ。


 彼女を見ていると、

 昔から知っている気がする。

 でも、それは懐かしさじゃない。


 「知識としての理解」に近い。


 彼女がどういう選択をしやすいか。

 どんな言葉に傷つくか。

 どんな距離感なら逃げないか。


 そういうことが、

 最初から、なんとなく分かっていた。


 それを不思議だと思わない自分が、

 一番不思議だ。


 人間は、自分の体を「自分のもの」だと思っている。

 少なくとも、そう思い込もうとしている。


 でも、澪は違う。

 彼女は、自分の左手を異物だと感じている。


 私は、その感覚を「間違い」だとは思わない。

 むしろ、理解できる。


 体と意識が一致しない感覚。

 自分のはずなのに、借り物みたいに感じる違和感。


 ………ああ、そうか。


 私は、

 それを「知っている」んだ。


 自分の体なのに、自分のものじゃない感覚を。

 自分の思考なのに、自分だけのものじゃない感じを。


 だから、澪の苦しみが、

 他人事に思えなかったのかもしれない。


 私は彼女に、答えを押しつけるつもりはない。

 選ぶのは、澪だ。


 ただ、見たいだけだ。


 かつて誰かが選ばなかった道を、

 今の澪が選ぶのかどうかを。


 でも、このことを、

 まだ、澪には話さない。


 話さなくても、問題はない。

 少なくとも、今は。




 それに、だって僕は元々死んでそれで終わり容器に入れられ飾られるだけのはずだった。


 あの日、彼女この身体の本当の持ち主あの選択僕の脳を移植をしなければ、私はここにいないのだから。


 彼女たちには二度の借りがある。




 だから、僕は彼女の最期の願いに向き合わなければならない。










 僕に「しずく」という名前をつけてくれた、あの子たちのために。

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