猫の手を借りたい……?
夕方。
店を閉め、商品の並ぶ部屋の明かりを落としたあと、私と
食卓に並ぶのは、焼き魚と味噌汁、それから炊きたての白いご飯。特別な料理ではないが、
この
おばさまは、食事の支度をする間も、食卓についてからも、私の様子をちらちらと見ていた。直接は言わない。けれど、視線の置き方で分かる。何かに気づいている。
箸を取って、しばらく経ってからだった。
「……澪」
低く、柔らかい声。
「今日は、なにかあった?」
その言い方は、昔から変わらない。
問い詰めるための問いではなく、扉を一枚だけ開けておくような問い。
私が幼い頃、この店に住むことになった時も同じだった。
私は、一瞬だけ迷ってから、箸を置いた。
「……お客さんが来てた」
「うん」
おばさまはそれ以上、何も言わない。続きを促す気配だけを残している。
「高校生の子で……最近、よく来てる」
おばさまの視線が、静かに私に向いた。
「あの、最近よく会話をしてる子だよね?」
私は、頷く。
「その子がどうかしたの?」
私は、右手を膝の上で軽く握りしめる。
「……手のことを聞かれた」
おばさまの動きが、ほんの一拍だけ止まった。だが、すぐに何事もなかったように味噌汁を口に運ぶ。
「包帯のこと?」
「うん。それだけじゃなくて……」
言葉を選んでいるうちに、息が詰まる。
「……病気のことも、全部」
おばさまは何も言わなかった。
ただ、私が続けるのを待っている。
「その子に、言われた」
喉の奥が、ひりつく。
「『僕の手、あげますよ』って」
今度は、はっきりと、箸が止まった。
「……あげる?」
「あとで、言い直してた」
私は視線を落としたまま、続ける。
「『貸しましょう』って。もし返したくなったら返せばいいって」
食卓に、しばらく沈黙が落ちる。
味噌汁の湯気が、ゆっくりと消えていく。
おばさまは箸を置き、指先を組んだ。その仕草には、梟の舎の店主としての顔が滲んでいる。
「……変わった提案だね」
ようやく、そう言った。
「私も、そう思う」
それ以上の言葉が、すぐには出てこなかった。
おばさまは、少しだけ視線を逸らし、障子の向こうを見た。
おばさまはこの店に似ている。表向きは曖昧で、掴みどころがないのに、奥へ行くほど輪郭がはっきりする。優しいのか冷たいのか、その境界を自分でも曖昧にしている人。
「……澪は、その話をどう受け取った?」
逃げられない問いだった。
私は、包帯越しに左手を見つめる。
「おかしい、とは思った」
ゆっくり、言葉を並べる。
「それに、私はおばさまが人間を使った手術を嫌っていることも知ってる。でも……」
「少しだけ、楽になる気がした」
それを口にした瞬間、胸の奥がきしんだ。
おばさまは、私を叱らなかった。
眉をひそめることも、否定することもない。
ただ、小さく息を吐く。
「そう感じたなら、それは嘘じゃない」
おばさまは、再び箸を手に取った。
「答えを急ぐ必要はないよ」
その声は、店主としてでも、親代わりとしてでもなく、ただの大人の声だった。
「貸すかどうかを決めるのは、澪だ。他の誰でもない。」
私は黙って頷き、箸を持ち直す。
口に運んだご飯の味は、いつもと同じはずなのに、どこか輪郭がぼやけていた。
その日の夕食は、最後まで静かだった。
けれど、その静けさは、逃げ場のないものではなく、考えるために残された余白のように、私の中に残っていた。
□□□□
布団に入ると、昼間の出来事が、遅れて追いついてきた。
暗闇の中で、天井の染みを数えながら、彼女の言葉を反芻する。
「貸しましょう」
包帯の下で、左手が微かに熱を持っている気がした。
それは痛みなのか、期待なのか、もう区別がつかない。
目を閉じても眠気は来ない。
代わりに、知らないはずの手の感触だけが、静かに思考の奥に残っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます