猫の手を貸したい。
「その猫は買えない」と伝えたあの日以降も、彼女は変わらず店を訪れ、その一点――ガラスケースの中の猫を見ていた。
私は、次第にその少女と話す機会が増えていった。
彼女は
私と同い年の高校二年生。ここから徒歩十分ほどの高校へ通っているそうだ。制服姿のまま現れる理由も、それで納得がいった。
会話といっても、大したものじゃない。
天気の話。授業の愚痴。帰り道に見かけた猫のこと。
どれも他愛のない話題ばかりで、私はそれを、ただ聞いていた。
不思議だった。
梟の舎に来る客は、必要なことしか話さない。あるいは、必要以上に話すか、そのどちらかだ。沈黙に耐えられない人間か、沈黙を利用する人間。久凪は、そのどちらでもなかった。
彼女は、無理に話そうとしない。
でも、黙り込みもしない。
猫を見つめながら、ぽつりと一言だけ、思ったことを口にする。
それに私が返す。
それだけのやり取りが、いつの間にか、自然になっていた。
「この猫、名前はあるんですか」
ある日、久凪がそう聞いた。
「……あります。しずく、って」
答えながら、胸の奥がわずかに揺れた。
名前を口にするのは、久しぶりだった。
「しずく」
久凪は、小さく繰り返す。
「綺麗な名前ですね」
その言い方は、評価というより、確認に近かった。
名前が名前として、そこにあることを確かめるような声音。
「
私は彼女の言葉に少し頷いた。
それ以来、彼女は猫のことを名前で呼ぶようになった。
それがきっかけだったのかもしれない。
私は、少しずつ、この店のことを話すようになった。
梟の舎が、表の世界から外れた場所にあること。
動物の体を売っていること。
そして、それを移植することも、ここでは行われていること。
久凪は驚かなかった。
怯えもしなかった。
「……変わった店ですね」
そう言って、少しだけ笑った。
ある日の帰り際、久凪の視線が、私の左手で止まった。
包帯に巻かれたそれを、じっと見ている。
「……前から思っていたんだけど、その手、どうしたの?」
一瞬、言葉に詰まった。
客に聞かれることは、ほとんどない。
興味を持たれないように、隠しているからだ。
「怪我です」
短く答えると、久凪は首を横に振った。
「そうじゃないでしょう」
断定ではない。ただの確認。
逃げ道を塞がない、問いかけ。
「本当にただの怪我なので……」
私はこの会話から逃げ出そうとする。でも、彼女は追い打ちをかけるように問い詰める。
「もし、それがただの怪我なら、なんで隠そうとするんです?」
久凪は背中の後ろに回した私の手を怪訝そうな顔で見る。
私は、何も言い出せずにいた。
いつもと違う。苦しい沈黙。
そんな沈黙を破るように、彼女は言った。
「身体完全同一性障害。」
「………なんでそれを……?」
彼女は私の問いかけに答えず、端的に話を続ける。
「身体完全性違和とも呼ばれる、健康な身体機能に対する持続的な不快感または強い否定感情を伴うことによる、手や足の切断、対麻痺、失明といった有意な方法によって身体障害者になることへの強い持続性の欲望を感じる病。違いますか?」
私は思わず後ずさる。確かに、私は身体完全同一性障害という、自分の身体の一部が余分に感じたり、不要であるように感じる病にかかっている。私の場合は特に左手だ。
でも、なぜ……なぜ彼女がこのことを。
「あなたの普段の行動ですよ。その様子だと合ってるみたいですね。」
久凪はまるで心の中を読んだかのように、私の疑問に答えた。
言い逃れはできない。それに、わざわざ隠していたわけでもない。
次は私の番だ、とでも言うようなその目を避けながら、口を開く。
「自分のものだって、思えないんです」
久凪は黙って聞いていた。
途中で遮ることも、慰めることもなく。
「触ると、変になる。使うと、壊したくなる」
言葉にするたび、胸が苦しくなる。
それでも、止めなかった。
「だから、包帯で隠してるんです」
話し終えると、静寂が落ちた。
いつもの店の静けさとは、少し違う沈黙。
久凪は、私の左手を見て、それから私の顔を見た。
「……じゃあ」
その声は、ひどく穏やかだった。
「僕の手、あげますよ」
「……は?」
一瞬、意味が分からなかった。
「その手が嫌なら、他人の手を使えばいい」
あまりにも簡単な理屈を言うように、彼女は続けた。
「ここなら、できるんでしょう?」
胸の奥が、ざわりと揺れた。
「冗談、ですよね」
「あいにく、僕は冗談と本気をしっかり分けるタイプなので」
久凪は首を振る。
「でも……そっか、あげるのは、だめか」
私が何も言えずにいると、彼女は少し考えるように視線を落とした。
「じゃあ」
そうして、言い直す。
「貸しましょう」
その言葉は、先ほどよりも、ずっと軽かった。
「借りるだけでいい。返したくなったら、返してもらえばいい」
デメリットはないでしょう、と。
そう言いたげな顔で、久凪は笑った。
私は、左手を握りしめた。
包帯の下で、指先が微かに震える。
――そんな都合のいい話が、あるはずがない。
分かっているのに。
それでも、その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいくのを、止められなかった。
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