猫の手を売りたい。

 ここ、梟の舎ふくろうのやは、路地の奥にひっそりと佇んでいる。

 表通りから一本外れ、さらに人気の少ない細道を曲がった先。昼でも薄暗く、夜になると、どこまでが影でどこからが建物なのか分からなくなるような場所だ。


 入口にあるのは、小さな木札だけ。

 そこに彫られた梟の模様が、ここが店であることを、かろうじて主張している。


 木扉を開けると、乾いた木の匂いと、わずかに薬品の気配が混じった空気が流れ出す。

 中は外観以上に古く、静かだ。床板はきしみ、棚は長年の重みに耐えて歪んでいる。


 棚に並ぶのは、動物の体の一部。

 爪、牙、骨、眼球、臓器。

 ガラスケースや木箱の中で、それらはきちんと整理され、値札を付けられている。どれも、かつては生きていた証を確かに残しているのに、今は商品として静かにそこにある。


 梟の舎は、動物の体を売る店だ。

 これだけでも普通とは違った店であるが、見方によっては動物の剥製を扱っている店と大きくは変わらない。

 もちろん、コレクション用途で商品を買う客もいる。だが、ほとんどの目当てはそれではない。


 ここでは、買った動物の体を自分の体へすることができるのだ。


 客は多くない。

 この店の存在はほとんどが人伝いに伝わっていく。

 怯えたり、顔を歪めたりする者はいない。そういう反応をする人間は、最初からこの店の扉を開かない。

 ここに来るのは皆、表の道を歩いている人間ではない。まっすぐ進むことをやめ、どこかで一度、道を外れた者たちだ。


 私は、店の奥から木箱を運びながら、左手の包帯を気にしていた。

 白いはずの包帯は、もう何度も巻き直している。

 端のほうには、うっすらと赤が滲んでいて、それを見るたびに胸の奥がざわつく。


 触れなければいい。

 見なければいい。

 そう思っているのに、気づけば視線はそこへ戻ってしまう。


 右手だけで物を持ち、右手だけで扉を開ける。

 それ左手を、まるで存在しないかのように扱う。

 自分の身体の一部なのに、どこか他人行儀で、信用できない。

 私には多すぎる。


 見ないようにして、指先で箱を持ち直す。

 触れない。意識しない。

 そうしないと、衝動が顔を出す。


みおちゃん、そこに置いてある箱を表の棚に置いてもらってもいい?」


 声をかけてきたのは、梟宮ふくろのみやさんだ。下の名前はのどか

 この店の店長兼私の親代わりのような存在だ。

 ここで働いているのは私と彼女だけ。昔はもう一人いたのだが………


 振り返ると、彼女は帳場の奥に立っていた。

 ぎょろりとした片目フクロウの目が、店内を静かに見渡している。


 幼い頃、初めて見たときは、なんとも形容しがたい恐ろしさを感じた。

 でも、今ではそれもこの店の一部だ。


「分かりました」


 短く返事をして、指定された場所に箱を置く。中身は軽い。

 こうした作業は日常で、特別な意味はない。


 おばさま梟宮は、余計なことを言わない。

 普段はふわふわしている印象だが、仕事中は必要な指示だけを出し、それ以上踏み込んでこない。

 プロ意識、とでも言うのだろうか。客に自分の素性を知られたくないのかもしれない。ここはそういう場所なのだから。


 梟宮という名前も、本名ではないのだろうと思っている。

 ここに来る人間の多くは、何かを隠している。

 名前も、身体も、過去も。


 だから、私は疑うだけで、確かめない。

 それで困ることは、今までなかった。


 私がここで働いている理由は、単純だ。

 両親を亡くし、行く当てがなくなった。

 拾われた、という表現が一番近い。


 住む場所と、働く場所。

 それが同時に与えられただけで、私はこの店に残った。


 静かで、余計なことを問われない。

 自分のこの忌々しい左手のことも。

 それが私の日常だった。


□□□□


 その日も、店は静かだった。


 早朝に一人、客が来ただけで、今は店内に足音一つない。私は帳場の奥で、伝票の束を整えながら、棚に視線を走らせていた。いつもと変わらない配置、いつもと変わらない商品。違和感が入り込む余地など、どこにもないはずだった。


 ………なのに。


 棚の前に、見慣れない影があった。


 制服姿の少女だった。紺色のブレザーに、少し大きめの鞄。背中はまっすぐで、怯えた様子はない。けれど、ここにいるにはあまりに整いすぎている。梟の舎に来る人間特有の、張りついたような緊張も、闇も、その目には浮かんでいなかった。


 彼女は、棚の一角に立っていた。


 視線の先にあるのは、ガラスケースの中に安置された一匹の猫。

 腐敗しないよう処理され、静かに眠るような姿のそれ


 私は思わず足を止めた。


 その猫は売り物ではない。値札も付けられていないし、客に説明することもない。ただそこに置かれているだけの存在だ。だから、誰かがそれを気に留めること自体が、少し珍しかった。


 少女は、じっと見ていた。


 覗き込むでもなく、触れようとするでもない。ただ、そこにあるものを確かめるように、静かに。


  変だ。


 そう思ったが、声はかけなかった。

 客には深入りしない。それが、この店の暗黙のルールだ。


 しばらくして少女は何も言わずに帰り、私はそのことを、すぐに忘れた――はずだった。


 翌日も、その次の日も、彼女は現れた。


 同じ制服、同じ時間帯、同じ場所。

 棚の前に立ち、猫を見つめる。


 何かを探しているようでもなく、迷っているようでもない。ただ、そこにいる。


 気づけば私は、作業の合間に何度も彼女の方を見ていた。

 理由は分からない。ただ、目が離せなかった。


 そしてある日。


 私が棚の整理をしていると、不意に声が落ちてきた。


「……この猫、いくらですか」


 一瞬、意味が理解できなかった。


 顔を上げると、あの少女がこちらを見ていた。良い意味でも、悪い意味でも、ここにいる理由が分からない。かえって異質な存在。近くで見ると、思っていたより幼い。けれど、その目は妙に落ち着いていた。


 私は口を開き、すぐに閉じた。


「……それは、売っていません」


 そう答えると、少女は少しだけ首を傾げた。


「でも、ここにありますよね」


「あります。でも、商品じゃないんです」


 言葉を選びながらそう告げると、彼女は納得したような、していないような表情で、もう一度猫へ視線を戻した。


「……そうですか」


 それだけ言って、また黙り込む。


 不思議な沈黙だった。

 気まずさとは違う。かといって、心地いいとも言えない。


 私は、なぜかその場を離れられずにいた。


 この店には似つかわしくない少女。

 売り物でもない猫を見つめる、その横顔。


 その出会いが、私の日常を、少しずつ歪めていくことを………

 その時の私は、まだ知らなかった。

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