21話


 大学で知り合った友人との縁を切り、音信不通となって、学内ですれ違っても目も合わせなくなってから4カ月が過ぎた――三回生の9月。休みが明けて新学期が始まった。


 通学への足取りは以前よりも軽い。おそらく人間関係が諸悪の根源だった。考えてみれば、人と付き合わず一言も話さなければ、大方の悩みは生まれない。深刻な悩みの多くには他人の存在が関係しているの。人と話せないことに悩む柄ではないし、昔から無口でいることが日常だった俺には、むしろこれが普通だ。友達など最初から必要なかった。


 川村さんは友達を大切にしろと言っていたっけ。でないと自分のような人間になってしまうと警告された。あの人はおそらく友人が必要だったのだ。それで堕落した。そこは俺と違う。


 大学には食堂があって、食堂の向いにはコンビニがあって、コンビニの隣にはステージが設置されている。軽音楽部などが文化祭の際に使ったりしている。たまにアンプラグド部が弾き語りをすることもある。そのステージの裏には喫煙所があって、喫煙者の溜まり場になっていた。

 友人と縁を切って以降の方が、喫煙の回数が減って今ではもう吸わなくなった。やはり付き合いというのは少なからず悪い面を含むのだ。人が誰しも主体性に満ち溢れていれば、自分のみの判断で生きていけるはずだろう。


 俺は生きている。あの誰も彼もが目の前から一瞬にして消えてしまった、気付けば最愛すらいなくなってしまったあの日から3年が経とうとしている今、生きている。

 俺が今も無事でいる事実は、未だ無砂利場さんに記憶が戻っていないことを意味するのだろうか。あの人は思い出したら喋るだろうか……。

 もしそうであっても、あの人を恨むことはない。


       〇


 月日は流れ、11月の秋の肌寒さを感じる。魔の季節の効能はすでに失われたのか何なのか。やはり人間関係を絶った今、悩ませるものはなくなっていた。


 そっと目を瞑れば、今でもあの、放課後の陰る廊下を駆けて行く無砂利場さんの姿が見える。艶やかな長い黒髪を揺らし、そして隣教室へと入っていった。振り返ると教室の南の机が夕暮れに照らされていた。窓から入り込むそよ風を受けてカーテンが揺れている。

 俺はベランダに出た。それからグラウンドの部活動の風景を少し眺めた。西の遠景から橙色の憂鬱が差し込んでいた。情景の外の遠くから吹奏楽部の音が聞こえる。

 放課後のベランダには、友人たちとの何気ない会話にほころぶ、彼女の声が聞こえている――。


「――止まれ!」


 何気なく開けた広場の真ん中まで歩いた時、広場を囲む三つの通路の先に、それぞれ拳銃を向ける女性や男性が立っていた。スーツを着ている。拳銃を持っていなければ、ただの会社員に見えただろう。


 三方のうち一つは食堂方面だ。食堂前に生徒がたまっていて、こちらに注目している。もう一つは大教室が二つ程度入った傍の建物に向かっている。その前では同様に、立ち止まる生徒の姿が見られた。そして最後は階段だ。階段の先には大教室が一つ入った建物があり、そこからも沢山の生徒が見下ろしていた。


 数々の生徒の中には、俺が大学に入ってから知り合ったかつての友人3人もあった。みんな、何事かと目を見張っている。


 無精ひげを生やした4人目の男が現れて、言った。


「霜月道加。立山第二高校の生徒363名の殺害および、教員一名、大学生4名の殺害容疑により……また、指定害能力者の疑いにより、拘束する」


 何か紙を俺に見せた。離れていて読めない。


「指定ガイ?」


「害虫のことだ。人に害をなす虫……俺たちはそんなくだらない連中を捕らえる」


 男の目は不愛想に脱力していながら力強かった。舐め切った、見下した雰囲気しか伝わってこない。


「能力は使うな。使った瞬間、もしくは使うそぶりを見せたと俺たちの誰かが判断した瞬間、俺たちはお前を殺してでも……まあそんなとこだ」


 そのとき、喫煙所の傍の木々が揺れているのが見えた。そして11月のこの時期に、蝉の鳴き声が聞こえてきたのだ。

 俺と同じように違和感をもった目の前の男は、周囲をちらちらと警戒しはじめた。


「……何かしたか?」と訊ねた。


 俺は首を振った。

 蝉の鳴き声は次第に増した。そして、いつかあの高校の体育館を満たしていた、赤子とかした生徒たちの泣き声のようになり、耳鳴りとも区別がつかないくらいの、じりじりとした騒音と化した。


 何の前触れもなく、するとそこに、空間を切るように誰かが現れた。黒い長髪の男だ。手には刀のような刃物を持ち、服装は袴のようだった。侍に見える。

 さらに一方で空間に亀裂が入ると、そこに、銀色に光る鎧を身に着けた大男が現れた。肩に大木ほどある巨大な剣を背負っている。

 さらにさらに、つばの広い紫のロングハットをかぶった魔法使いみたいな少女が現れた。手に捻じれた木の棒みたいなのを持っていて、紫のローブを纏っていた。


「ここが異世界か、蝉神?」大剣の大男が背後の誰かに訊ねた。


 そこにはまた一つ亀裂が現れ、中から蝉を象ったようなお面を付けて、高身長の者が現れた。服装は縫ってつなぎ合わせた、ぼろぼろの麻袋に見える。


「もっとも重力場の強い空間……それすなわち道加のいるところ……ほら、いた」


 男の声だった。蝉の面は俺へ振り向いた。傍の三人も俺を見る。


「迎えにきたよ、道加」


 蝉の面は「なんだ」と周囲に佇む4人のスーツ姿の男女へ振り向いて「物騒だ」と言った。

 布袋の服から腕を出すよう、もぞもぞと蝉の羽のようなものが現れる。それは生々しく気持ちが悪い。彼はそれを4人に向けて一振りした。その瞬間に風圧が起こり、広場のタイルは剥がれ、4人もろとも周囲の喫煙所やコンビニや木々などが、一瞬にして塵となった。

 蝉の音が一層強くなる。


「さあミチカ、君も影響しな。使い方はもう分かっているだろ?」


「……うん」


「それはもう君のものだ。影響してくれてありがとう。おかげで帰ってこられたよ」


 さらに周囲に無数の亀裂が現れた。そして人が続々と現れた。

 着物を着た人や、足軽のような軽装の集団。人を運ぶ人力の乗り物――駕籠かごを背負った二人組が現れると、蝉の面の男は上に飛び乗り、留まるところを知らず現れ続ける群衆へ号令をかけた。


「まずはここらを破壊しよう! 異世界人は念のため、皆殺しだ!」


 群衆が「いいぞ殿!」と返した。

 気付けば参勤交代のような列が食堂方面の開けた道に向かって続いていた。それは曲がり角を曲がって、大学の外に向けて進みながら、すれ違う学内の生徒たちを楽しそうに和気あいあいと殺している。刀で差したり、あるいは何か能力のようなものを使って切り刻んだり、燃やしたり、破裂させたり様々だ。

 駕籠かごの上で蝉の面の男が「セミガミ! セミガミ!」と扇子をひらひらさせながら踊っている。駕籠かごを支える二人は歌に合わせて揺らすが、蝉の面の男が落ちる気配はない。


「道加、さあ、僕と一緒に行こう!」


「ミチカ様、こちらへ」


 大剣の男や侍、魔法使いに招待されながら、俺は参勤交代の列の混ざった。


「ミチカ、君の苦悩は見ていたさ。だけどね、そんなものはすぐに晴れて消えてしまうだろうさ。これから楽しい世界が始まるよ。そしたら遠い過去なんて見なくて済むよ。楽しい人生の始まりさ。僕と一緒に楽しいことをしよう!――」


「君は、一体……」


「忘れたかい? 僕らは蝉神だよ」


「僕ら?……」


 蝉神は大声で言った。


「――蝉が惨めに通り魔す!」


 長者の列から「蝉が惨めに通り魔す」と同じ声が上がった。広場から抜け出して食堂を通り過ぎ、並木のアーチの下を進行する。逃げ惑う生徒たちがバンバンと次々に破裂し、辺りは一面血肉でびちゃびちゃになっていく。


 駐車場を通り過ぎ、バス停を過ぎて、すると参勤交代の列は地上を離れ、空高くへと浮き上がっていった。俺もそれに続いた。


「蝉が惨めに通り魔す!」――。


 隣に飛ぶ大剣の男も、侍も魔法使いも、誰もが大声でそう言った。まるで祭りの騒ぎのようだ。蝉神は駕籠かごの上で踊っている。


 長蛇の列はしばらくして、そのまま河原町の上空へとたどり着く。

 地上では、アーケードから上空を覗き込む女子高生や、横断歩道の真ん中で立ち止まり空を見上げる会社員や、カップルや、「蝉が惨めに通り魔す」という掛け声に店から出てきた店員や、そして車の窓から顔を出す運転手など、沢山の人たちが蝉神の行進に目を奪われた。


 四条河原町から三条通りへ向かてゆっくりと北上する列は、真下に様々な物を投下し、すると真下の人々は多種多様な被害を受けて苦しんだ。落とされる物の中にはボーリング玉もあれば大型バイクもあり、それは様々で統一性がない。降り注ぐ物の下敷きになった運の悪い誰かが死んで、周囲では悲鳴が上がる。


「どうだいミ道加、愉悦だろー! 楽しいだろう!」


 そう言って蝉神は、蝉の面を取った。


「――明後日の方向に左目の散った少年は、ショーウィンドーの内側で青年誌を読み耽りながら、交差点で主婦をひき殺すトラックの勇ましさに歯ぎしりとカスタネットを鳴らした! それを見た生真面目な隣の席のあの子は、道徳の授業で将来の夢を犬殺しと語り、成人して水商売を始めた! 白線の内側で敬礼する駅員は、マグロが打ち上がる瞬間を今か今かと待ち望み、ストレスからの貧乏ゆすりでアリアを奏で、躍動する。線路を覗き込みむなり快速に首を持ってかれた。被害者利権に敗北し不謹慎なあの供花も正当化され、無関係な子供の指先を切りつける花弁。ヒステリックな音楽教員は、生徒の私語に首振り人形みたく発狂し、ピアノ線で舌を切りまわった。舌が見つからないのは用務員が炙って食べたからだ。劣化の宿命に潰し殺された遺伝子も、明日にはニーズの喧騒に消えるだろう――蝉が惨めに通り魔す! ああ、蝉が惨めに通り魔す! 」


 駕籠かごの上で、成長した那々騎が踊っている。







 7年前――。


 蝉の音が止む気配のない蒸し暑い7月のこと。

 気温38.5度の猛暑日に、中学二年生の那々騎は一人下校する。


 田んぼの横を通り、無駄にガードレールを跨ぎ住宅街へと入っていく。真新しいアパートや、古い木造建築の住宅も見える。道加はプールの授業で使う海水パンツやバスタオルなどの入った袋蹴って、歩き進んだ。

 すると木々が道路にはみ出すほどに茂った、寺の前で足が止まった。蝉が鳴き声が一層強くなって、木から降ってくるのではないかと怖くなったのだ。木を見上げながら、できるだけ足音を立てないように自然に横切ろうとした。


「――おい」


 そこで声が聞こえた。

 立ち止まり、また上に警戒した。だがそこには依然とうるさい蝉だけだ。見つけることができないが、木々のどこかに潜んでいるに違いない。


「こっちだ」


 寺を囲む低い塀の天辺に、一匹の蝉が止まっていた。その黒々しいビジュアルに嫌悪した。さらにそれが喋るなど気持ち悪くて仕方がない。

 まっさきに驚くべきは蝉が喋っていることだというのに、猛暑のせいか驚いている余裕はなかった。ただし気持ち悪さは感じている。


「蝉……」


 ミンミンと鳴かない蝉を前に、朦朧とした頭で違和感を抱いた。


「そうだ、俺様は蝉だ。その名も蝉神様だ」


「セミガミ様?」


「そうだ、蝉神様だ。ナナキ――お前に伝えておくことがある」


「どうして名前を?……どうして喋って」


「そんなことはどうだっていいんだ。とにかく影響しろ。影響を及ぼし、それから7年ほど待て。それで俺たちはそちら側に行くことができる」


「そちら側……」


 おそらく熱中症にかかってしまったのだろう。そうに違い。

 そう思って、那々騎は水筒の中のお茶を一気に飲んだ。


「飲んでも俺様は消えんからな。もうこちらの世界はもちそうにない。いいか、よく聞け。お前に託したその高級な影響力を追って、すぐに末人たちの影響力がこちらの世界に降り注がれる。お前たち人類は特殊な力に目覚めることだろう。俺の命はあと3、4年ってとこだ。そんくらいしかついててやれねえ」


 蝉は言った。「守り抜け」

 影響力を用いて立ち向かい、影響を及ぼし7年ほど待てと。


 那々騎は眠そうな目を指でこすり、またお茶を飲んで歩き始めた。

 すべてはこの猛暑のせいであり幻覚だ。熱中症で倒れはしないかと心配になりながら、足早に家に帰っていった。


       〇


 11月、それは昼休み中のことだった。


「ミチカ、なにやってんの?」


 テーブルにフォークとスプーンを並、箒を手に、那々騎とビリヤードの真似事をして遊ぶ伊田島は言った。道加はテーブルの下の扉や引き出しを漁っていた。


「確か包丁なかった?」


「ああ、そこのテーブルの引き出しじゃね?」


「危ないよ、道加」箒を構えながら那々騎が言った。


 中庭の見える窓に腰かけ、「そっちのテーブルだぞ、ミチカ」と楠木が教えた。

 道加は引き出しから包丁を見つけると、手に取り、満足そうに側面に映る自分の顔を見つめた。そして意味もなく、少し怖さも感じながら、俯いた状態で腹の位置で包丁を構えたのだ。

 そこに那々騎が後ろ向きに下がってきた。


 包丁が背中に刺さり那々騎は「ん」と声を上げた。

 初めはその感覚が何か分からなかった。次第に痛みを感じて、その場に倒れ込んだ。

 楠木は窓際から飛び降り、倒れる那々騎を動揺の表情で見た。「先生呼んでくる」そう言って教室を出ようとする。


「待て」伊田島だった。


 伊田島と楠木は口論になった。教師を呼べば自分たちのせいにされると伊田島は言ったのだ。それに楠木も一瞬は同意したかに見えたが、危機的状況に呼びに行かなかったことがバレる方が、もっとマズいと伊田島を説得した。

 二人は共に家庭科室から入って出て行った。


 道加は声すらかけられないくらいに混乱していた。

 目の前では今も那々騎が「痛い痛い」と苦しがっている。包丁を抜いてあげようか。だが抜くと血が出て余計にダメだと何かテレビで見た気がした。

 二人も帰ってこない。次第に那々騎は痛いと言わなくなった。

 すると開いていた窓から一匹の蝉が入ってきたのだった。


「おいおい、マジかよ、こりゃとんだ誤算だぜ」


 那々騎は反応するように「蝉神」と言った。


 蝉は言った。「ナナキ、お前、このままじゃ死んじまうな」


 道加はそんな蝉と那々騎の会話を前に、混乱を通り越した浮遊感にあった。なんだこれは。蝉が喋っている。ありえない。那々騎も普通に言葉を返している。


「こうなったら転生しかねえな」と蝉神は言った。「那々騎、こっちの世界にある俺の肉体に、お前の意識を転生させる。どうせ俺様はあと3.4年しか生きられねえし、もう蝉神として生きようとも思ってねえ。そこからどうするかはお前次第だ。人間並みの寿命くらいなら探せば見つかんだろうよ。だがどうなると、みんながこっちの世界に来られなくなる」


 そう言って蝉神は道加を見た。


「おいお前、名は何てぇんだ?」


「……道加」


「じゃあミチカ。お前、ナナキの影響力、半分貰えや。こいつの肉体壊した代償だ。それくらい付き合え」


 蝉に話しかける自分に違和感を抱きながら、

「那々騎は助かるの?」


「消えることわねえ。重要なのは意識だ――」


       〇


 家庭科室に担任の玉木が駆け付けた頃、棒立ちの道加の足元で、那々騎は死んでいた。


「那々騎……七年ほどしたら帰ってくるって」


 愕然とする玉木や伊田島や楠木に対し、魂の抜けたような瞳で道加は言った。


 その後、警察の事情聴取を重ね、三人はカウンセリングを重ねて、あの日家庭科室で起きた些細で強烈な出来事の全容を、頭の中から薄れさせていく。

 いつしか道加の中には「覚えているはずなのに、意外と忘れている」という説明できない感覚だけが残った。何を忘れているのか分からない。それがカウンセリングの効果であったのか、一方で伊田島や楠木はどうなのか、縁も切れてしまい道加には分からない。


 それから年が明け、そろそろ二年生としての授業も終わりそうな一月中旬の事。

 理科の実験で道加は理科室にいた。5、6人のグループで、流し台のついた大きなテーブルに分かれて座っていた。

 道加は黒板を正面に、前列の一番側のテーブルについていた。席も同じだった。

 後ろには長谷川水葉が座っていた。


 教師の説明が終わると各自は実験の準備に取り掛かり始める。そのせいか教室の中は騒がしくなった。教師は、実験の際は私語に寛容になる。


「霜月」とおもむろに背後で声がして、道加は長谷川の方へ振り返る。


「なに?」とくだけた返事をした。


「那々騎を刺したってほんま?」


「――――――」


 足元で血を流し倒れている那々騎を思い出した。そして何か大事なことを思い出しかけるも、何を思い出そうとしていたのか忘れた。

 道加は黙った。一言も返さなかった。

 そのとき、長谷川水葉の目は、魚の黒眼のように据わっていた。


 また月日が過ぎ、春休みが明けて始業式があり、道加は三年生になった。

 伊田島や楠木や長谷川とは違うクラスになり、意識的に顔を合わせることが少なくなり、道加の日常は徐々に普通へと戻っていった。ただこのころ道加の頭には、前頭部の右側に10円禿げのようなものができていた。上から押さえれば髪で隠せたため、気付かないのか周囲が何か言ってくることはない。道加自身は、なんでここだけ毛が抜けているのか分からなかった。

 どこかでぶつけたのか、無意識にかきむしったのか、心当たりがない。


 ある日の昼休み。

 廊下で友達と話していたときのことだ。

 廊下の先から特によく遊ぶ訳でもない、学校でしか話さないような存在だった門脇という、じゃがいもみたいな生徒が、はしゃぐ表情で走り寄って来た。


「霜月、那々騎を殺したのお前ってマジ?」


「……」


 道加はまた黙った。

 門脇の後ろには、さきほどまでその話題でだべっていた何人かの生徒がいた。門脇と同じ楽しそうな顔ぶれが並んでいる。

 そのバカでかいに問は、道加の教室の中にまで聞こえた。もしかすると隣の教室にも響いたかもしれない。道加には分からない。

 ただ道加は「え」と口から音を出し、固まった。いつか長谷川に聞かれた際のように黙ったのだった。

 黙ったままでいると、何かマズいことを言ったのかと門脇の表情が徐々に気まずいものになった。そして背後の友人たちを連れ、どこかへ消えていった。


 教室に戻り席についた道加に話しかけるものはいない。

 みんな今の話を聞いていたのだろうか……。

 俺はやってない、俺はやってない、俺はやってない、俺はやってない、俺はやってない、俺はやってない、俺はやってない、俺はやってない、俺はやってない、俺はやってない、俺はやってない、俺はやってない、俺はやってない――。

 凸凹な机の平面しか見えない。道加は叫んだ。誰にも聞こえない声で叫び続けた。

 ――俺はやってない。

 机にもたれかかると、古い木のにおいがする。学校のにおいがする。

いつしか静かになっていた教室の中や廊下は、普段通りの昼休みに戻り、うるさくなっていく。だが道加の頭の中は元には戻らず、人知れず叫び続ける。

 もう生きたくない……。その感情が何を意味するのか、動転からか混乱からか道加には言葉で表せない。理解できない。だからこそ純粋な感情だった。


 この日、道加は初めて自殺を考えた。

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蝉が惨めに通り魔す 酒とゾンビ/蒸留ロメロ @saketozombie210

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