第三幕 39・8度の陰鬱
17話
大学も三回生になってしまった6月のこと、梅雨に入り、日常は気だるげだ。
そんな季節の土曜のこと。部活動で精を出す生徒たちが帰ころを狙い、俺は母校である中学に侵入した。
重力によって空間が歪むと、俺の周囲では時間の流れが変わる。これを巧みに使うと、俺の姿は監視カメラにも映らない。半透明のような状態になる。
事件のあった二年生のころ、あの当時の担任である玉木は、いまだこの中学で教職についていた。
生徒が返ると、玉木は校舎外の陰で一服した。もくもくと煙をくゆらせ、疲れた顔で味わった。
校舎に戻り、教員通路から職員室に入った。
壁際にかけられた鍵をチェックし、一つ取り、それから職員室を出た。やや外開きな歩き方で、かかと床にすらせて歩いている。後頭部をぽりぽりとかきながら、玉木は教室の連なる一回の廊下に向かった。
教室の鍵を開けると、玉木は電気もつけずにだらだと薄暗い教室に入り、窓際にある虚引用の机の中を漁り、中からバインダーを取り出すのだった。
「うわ!」
玉木は驚いて教壇から足を踏み外した。机に倒れ掛かり、体重をささえてすぐに体勢を立て直した。その間、教室の丁度真ん中くらいにある席に着いた俺から、視線を外さなかった。
俺は姿勢よく座り、玉木をじっと見た。
「だ、誰や!」
「お久しぶりです、玉木先生――人殺しが戻ってきましたよ」
玉木は瞳孔の開いた目で凝視し、しばらくして声を漏らした。
「霜月か……」
「覚えてましたか……。そうです、殺人鬼の霜月です。ご無沙汰してます」
「お前、そんなとこで何しとんねん、不法侵入やぞ」
「多めに見てくださいよ、母校なんですから。今日は話があって訪ねたんです」
「話?」
「はい。そろそろ7年になりますか……那々騎を覚えてますか?」
「もちろんや。忘れる訳ないやろ」
「ですよね……あれは衝撃的だったでしょうしね。ところで、あれはつまり事故だったじゃないですか?」
「……おう。そうや?」
「ですよね。それが俺たちの共通認識です。伊田島も、楠木も、先生も……みんな、あれは事故だと言ってました」
「何が言いたいんや?」
「最近、あの当時のことを思い出すんです。すると何故か、どうも記憶にある内容と違うんですよ。なるで俺が意図して那々騎を刺したような……そうでないと、辻褄の合わないような光景が見えるんです」
「……光景?」
「――同級生がみんな、俺を睨んでるんですよ」
玉木は俺の言葉を疑うように目を細めた。
「霜月、お前なにを言うとるんや?」
「いつだったか友人とボーリング場に遊びいった時、隣のレーンにしきりに俺を睨むグループがいたんです。多分、中学のころの同級生だったんでしょうね。でもそれほど話したことのない生徒で、俺の方は面識がなく、向こうは俺を知っているみたいでしけど、俺の方は分からなかった。その帰りに偶然……本当に偶然、長谷川にあったんですよ。コンビニの前で。そしたらあいつ、俺になんて言ったか分かりますか? ああ、もちらん睨んでいた訳ですけどね」
「なんや、何言われたんや」
「人殺し」
「……」
「ただそう言われたんですよ。お前が那々騎を殺したんだろって。それで最近になって思い出したのが、当時もあいつ、俺になんかそんなことを訊ねてきたんです。那々騎を刺したのかって。でも俺、何故だか黙ってしまって、上手く答えられなかったんですよ。まあ、罪悪感でしょうね。事故でも刺したことは事実です。俺が包丁なんか手に持たなければ、あいつが死ぬこともなかった。幼く、言葉では言い表せないけど、俺は色々と分かってたんでしょうね。自分がその瞬間にも、どんな状況に置かれているのか……」
「……確かに。相談は受けた」
「相談?」
「長谷川やろ? あいつらの周囲の女子がな、お前を犯人や犯人や言うさかい、それは違うと言うたんや。でも聞く耳もたへんかった」
「先生、俺が今日ここに来た理由は一つです。俺が那々騎を殺したなんてことを言いふらした奴がいる」
「霜月……」
「いま長谷川から直接相談されたと言いましたか? だったらそのらへんのこと、ご存知なんじゃないですか、誰よりも詳しく」
「……知ってどうすんねん」
「別に、どうもしませんよ。ただ自分がなんで人殺しなのか、その理由や経緯が知りたいだけです。でないと前に進めないんですよ」
「楠木や」
「楠木?」
「それから長谷川を含めた3人程度の女子やったか。よう一緒におったやろ。あのらへんが、楠木に事件について教えろって迫ったらしい。それで楠木は話さざるを得へんかった。それでも楠木は、別に嘘言うた訳やない。ちゃんとあれは事故やったと説明した言うとったわ。それを長谷川が思い込みから話を変えよったんや」
「――嘘ですね」
怒りがこみ上げた。
それは衝動なんかじゃない、一過性の何かでもない、勢いでもない、積年の深い感情だ。
「嘘?」
「みんな自分だけは責められたくない……自分だけは悪者になりたくない。伊田島もそうだった。一対一では人のいいことばかり言って、いざ危機が迫ると俺を売りやがった……」
「……おい、大丈夫か?」
玉木を教壇を下り、忍び足で俺の方に近づこうとしてきた。
俺は力を開放し、玉木を黒板に叩きつけた。暗い教室に吐息と強打した音が響いた。
「ぐっ……能力者」
「先生、ありがとうございました。来た甲斐がありました。楠木と長谷川と……あとは卒業アルバムでも見て思い出します」
首を圧迫され、玉木は首を押さえて逃れようと暴れる。
そっと黒板に近づき、苦しむ玉木の表情を見た。
「俺は一切触らずに人を殺すことができるんです。人殺しなら、そんな力、使わないはずないですよ」
「しも、つき……」
「向こうで伊田島に会ったら、よろしく伝えといてください」
「よ、せ……」
手を拳銃のような形にして、それを怯える玉木のこめかみに向けた。
「たとえば――小学生がカエルにエアガンで穴を空けるように、無垢に殺していきたいですねー。いつまでも吐き気に襲われている訳にはいかないので……カチャリ(装填)」
引き金を引いた。
〇
人が求める成長とは、「極小の知恵」と「極小の度胸」である。
それは人一人当たりの世界が極小だからだ。この、瞬間にも満たない生涯において、自と関係しうる世界が極小だからだ。
この二つを手に入れたならば、極小の世界において、まずまずの幸せを手に入れることができるだろう。青春も謳歌できるだろう。社会生活もまずまず良好だろう。
しかしこの二つがなければ、それだけで私たちは惨めとなる。
この二つは若いうちに手に入れなければならない。ある程度歳を重ねると手に入れることが困難となる。あとになって欲しても後悔するだけだ。
今の君と同じ17歳の頃、私はこの二つに気付いた。そしてあとになって、今ではもう手に入らないのだと悟った。
私の人生はこの先もずっと、死ぬまでは惨めに続いていくことだろう。
現代日本には浪漫が欠如している。誰もが当面の秩序さえ守られればいいという、ただの理想を本気で信じている。これは病気だ。私のこれと同じ病気だ。いい加減な猿真似思想の上に秩序などあり得ない。
大学卒業後、私はすぐに引き籠もりになった。働かず、毎日を部屋の中だけで過ごした。今に始まったことではない。私は高校二年生の夏には引き籠もりだったし、三年の夏も引き籠もったし、大学でも二年間は変われたかもしれないが、三回生の頃にはまた引き籠もりに戻っていた。
初めて頭に自殺が過ったのは、中学三年の頃だった。
その約五年後、大学三回生の頃には練炭を購入するまでに至った。
私が今も生きているのは、この、極小の知恵と度胸がないからだ。
現代日本人の性質はこの引き籠りに近い。彼らは自己防衛手段を持たないのだ。だから多くは引き籠もり、そしてさらに悪化する。自分を守れない者は精神を病む。長期に及ぶ慢性的ストレスの果てに、人は無気力になる。無意識的無気力こそ現代日本人の特徴だ。
おそらく誰も何もしない。誰もが無気力だから、それも無意識のうちに無気力だから何もしない。解釈を無理やりに多様化した歴史が押し寄せ、そのときは誰もが棒立ちのまま呑まれる。歴史と文化を汚されたとしても何もしない。無気力だから何もしない。これまでも何もしなかった。動くべきときにすら何もしなかった。この先の未来に限って何か反撃するなどということはない。それを可能とするには、まず状況や環境を変えるしかない。
ただし私たちは能力を得た。
霜月くん、君は武器を、自衛の手段を得たのだ。
君くらいの頃は、人生においての現実感というものが薄いのではないだろうか。能力を使った際の感覚ははっきりしているだろうか。私は、君のその他人事な感覚と、若いパワーに賭けたいと思う。
私のこれは衝動だ。一過性の薄っぺらい何かであり、勢いに過ぎない。 歳を重ねると、この勢いすらなくなってしまう。信じられなくなってくる。私は君の勢いを信じる。
その果てに、極小の知恵と度胸はあるはずだ。
思うに思想というものは、空虚には良薬なのだ。この腹の真ん中にぽっかり空いた穴に、それは心地よく収まった。私は安心した。それは私のような空っぽな者にとっては猛毒だったかもしれない。それでジレンマを引き起こしたらしい。この後遺症がなんであるのかは、今後、君によって多分に示されるだろうと信じている。
雑踏に立った瞬間、私は視界に把握できるすべての人間を、人格のある他人として認めることができる。これは通り魔殺人を引き起こす殺人者の本質的特徴であり、私の強みだ。
亜草より
〇
二回生の夏。俺は亜草さんの手紙を読んだ。
結局のところ、あの人が何をしたかったのか、裏で何をしていたのかは分からない。それから久能かなえさんだ、彼女にしても分からない。
何か亜草には変えたいものがあったらしい。
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