16話
年が明けた4月のこと。
世間では新学期が始まり、俺も大学に進学してオリエンテーションなんかの関係で登校した。
事件が有名になりすぎて、ネットでは生き残った二名の生徒に話題が集まったりした。俺は結局、市内から少し離れた田舎の大学に通うことになった。
大学にも慣れた、夏休み中の8月のこと。無砂利場さんと久しぶりに顔を合わせた。
場所は校長室だった。
あの事件以来数回しか学校に行かず、そのまま卒業という形だった。事が事だけに式は開かれなかった。
今になって、学校側がせめて二人の生徒だけでも卒業式をしてあげたいと連絡があった。
広くはない何となく立派な校長室で、俺と無砂利場さんは順に卒業証書を手渡された。
その間、なぜだか無砂利場さんがすごく自然に見えた。鬱をこじらせている様子もなく、悲しそうな感じもなく、幸せそうで、それが反って不気味だった。
式も終わり、帰りしな、渡り廊下にその背中を見つけた。
無砂利場さんはお母さんらしき人に手を引かれていた。
「無砂利場さん」
俺は声をかけ、駆け寄った。
振り返った無砂利場さんの顔は晴れていて、妙に涼しげなものだった。
高校一年生のころ、あのオープンカットで初めて無砂利場さんを見つけた、あの瞬間の映像が脳裏に過った。
「……久しぶり」
無砂利場さんは微笑みを固定して言った。
「こんにちわ……どちら様ですか?」
「――――――」
――時間が止まった。
それは紛れもなく無砂利場さんだ。なのに俺は、目の前の彼女の中に何も見ることができないでいた。
「霜月、道加くん?……」
無砂利場さんのお母さんが話しかけてきた。
「はい。霜月です」
「ごめんなさいね。あの事件以来、娘は記憶喪失で――」
お母さんはそれからもっと長く、色々と話していたと思う。
記憶喪失――その言葉以外何も入ってこなかった。
「私の、お友達ですか?」――無砂利場さんは微笑み、言った。
どんな言葉を返せばいいのか分からなかった。
「……いえ。ただの……ただの同級生です」
「そうですか」
無砂利場さんは軽く会釈し、お母さんに支えられながらゆっくりと遠ざかっていった。
母親に何か話しかけ微笑んでいる無砂利場さん。
その光景を見つめながら、俺の中には何も無かった。これといって感情がなかった。憂鬱でもなく、何か悲しい訳でもなく何も無かった。
彼氏だと名乗り出ても良かったかもしれない。365人も死んだんだ。みんな死んだんだ。もはや俺と彼女が恋人関係にあったと宣言したところで、それを否定できる者はいない。
嘘から生まれた「誠」にできた。
誠――あいつの顔を思い出した。
今の一瞬で「誠」という文字が概念だか人名だか分からなくなり、何かおかしな意味を持ってしまった。
嘘も誠も紙一重かもしれない……。
それでもこれが唯一の機会であるように思える。今から追いかけて「俺は彼氏です」と一言いってしまえば、高校三年間、俺の求めていた幸せが全部手に入るんじゃないだろうか。
「君は彼女の何一つ知らない」
頭の中で、いつか夢に現れた川村さんが語り出す。
「君にとっての彼女とはただの猥褻物に過ぎない。彼女の主体的思想は邪魔でしかない」
俺はそんな人間なのだろうか。
「妄想によって縛られた、君においての究極的な猥褻物だ」
この感情は紛い物なのだろうか。汚れているのか。
帰り際、道路を挟んだ学校の向いのバス停に、無砂利場さんの姿を見つけた。
俺は反射的に自転車を止めた。
胸が締め付けられるような思いがこみ上げて、幻影はふわっと視界から消えた。
〇
一年生の冬、それから年を越えて二年生になり、春、夏、秋と、彼女は廊下を駆け抜けた。友人たちとの何気ない会話にほころぶ彼女の声が、隣の教室から放課後のベランダには聞こえる。
グラウンドに目をやると、西の遠景から
艶やかな黒髪をさらさらと揺らし、日の差さない、あの放課後の陰る廊下を駆けていく姿を覚えている。
それは目を瞑って世界が真っ暗になろうとも、俺には見ることができる。未だに見ることができるのだ。
帰宅後、おもむろに日記を手に取った。
開いてみると、そこには無砂利場さんへの数々の想いが記されていた。
1ページ目から目を通すと、そのすべては苦悩に満ちていて、苦悩のすべては彼女だけに関するものだった。
読み返してみると、自分がどれだけ彼女に夢中だったのかが分かってくる。まるで過去の自分に共感するみたいな感覚だ。
だがそんな、腹を抉られるような悲しみに反して、ふと「無砂利場さん」なんて人は初めてからどこにも存在していなかったのではないか――と、そんな考えが過った。
無砂利場さんに苦悩したあの時間。生きることに辛さを感じたあの時間を思い出すと、いつだったか灰色がかっていたはずの映像には、おかしな色が宿っていた。
すべてはターコイズブルーに似た何かに彩られている。その色が何を意味するのかは分かない。川村さんはそれを青春だと言った。
無意識のうちに橋の真ん中に至り、俺はそこから飛び降りてどうにかなってしまえと思ったのか、どうなのか……。
とにかく生きていたくなかったのだろうと、かつての自分の行動を思い出しては考察する。
そんな死にたくなるほどの日々のすべてが、今では何故か、幸福であったように思えてくる。
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