4話

 十二月一五日、火曜日、友引。

 昼休みのベルが鳴った。教室がざわつき始め、教壇の立葉は教科書を閉じて、いい加減にさっと黒板を拭いた。


「日直の人、あと拭いておいてくれる?」


 返事はない、教室はざわつきで溢れている。立葉の方も誰に対して言ったのでもない。話し声や椅子の脚の擦れる音なんかが聞こえ始めていた。教室にいたほとんどの生徒は、他所へ流動的に消えていく。

 俺も弁当だけ持って、誠のいる隣の教室に行った。

 誠を見つけて、誠の方も俺を見つけて、俺たちはなんとなく黒板前の空席に着き弁当を広げた。

 誠は無砂利場さんと二年連続で同じ教室らしく、だから話すことも何度かあるらしい。羨ましい限りだ。教室の後部では机を寄せて友人たちと談笑している、無砂利場さんの姿があった。中には平さんの姿もあった。

 毎日昼休みになるたび、この教室を利用する。それは誠がいるからだ。それだけだ。俺は心の中でそう言って飯を食べた。


「そういえば、大将からなんか変なメールがきたんだけど」


「メール?」


「なんか京都が物騒になってきてるから、気を付けろだって」


「……ふーん」


 頭に過ったのは能力者同士の抗争だった。大将は暇さえあればネット掲示板に張り付ているような奴だから、何か新しい情報でも得たのかもしれない。


「先週は焦ったよな、まさかカラオケ屋で出くわすとは思わんかったわ」


 誠が教室の後ろを気にするように一回見た。


「お前は相変わらずだったな、チャンスなのになんも話しかけない。大将が平さんと喋ってる間、あの人ずっとフリーで暇そうにしてたなのに」


「……思い出したくもない」


 いくらか妄想してきたはずだった。近所の本屋で、フードコートで、ボウリング場で、それからカラオケ店で、ばったり無砂利場さんと出会う。でも、いざ目の前にすると俺は何もできなかった。話しかけ方が分からなかった。


「今に始まったことじゃない」


「確かに」誠ははっきりと肯定した。


「いつか話しかけるって」


「そのいつかは永遠に来ないって、前にも言っただろ」


「大丈夫だから、ちゃんと話すって。だって毎日会うんだぞ? チャンスはある」


「ほぼ残り一年だ。それに毎日じろじろ見れば、バカじゃないんだからあの人だって違和感くらいは抱く」


「……まさか気付いてるのか、あの人?」


「知らないよ、でも何も思わないって方が変だろ。お前にとってのあの人って、以外と無機質なのかもな。俺にも覚えがあるけど、憧れってそんなもんだよ」


「憧れ?」


「この霧と同じだろ、見えてるだけで掴めやしない」


「え……」


 南の窓の外に、薄い霧が広がっていた。


「いつかは霧も晴れる、そしたら何もなかったみたいになんだよ。いつかいつかって、ずっと言ってるけど、いつまでも高校生じゃないだろ? この間まで高一だったのにもう……」


「……誠?」


 誠は静止していた。瞳は白濁した水晶の玉のようだ。

 教室内にあった雑音のすべてが消えていた。窓の外は濃霧で、室内にも入り込んでいる。廊下にも気づかない間に広がっていて、他の教室から聞こえていた雑音も聞こえなくなっていた。スピーカーから聴こえてくる音楽以外のすべてが沈黙している。

 そっと席を立って廊下に出た。東の突き当りが見えない。西に向かって歩き、教室棟を出た。渡り廊下を横断して、西の職員棟に移動する。目的地は特になく、気の赴くままに進んだ。三階の図書室の前まで来ると、「図書室の住人」たちも静止していた。

 素通りして二階に戻った。渡り廊下の真ん中で止まって、北の実験棟の入り口を見た。呼吸を沈めて、誰かの足音でも聞こえないかと集中した。


「川村さん?……」


 そっと囁くように名を呼んだ。返事はない。

 教室棟の方から女子生徒の悲鳴が聞こえた。反射的に振り向き、自然と足が動いた。教室棟に入った。何事もなさそうな最初の教室の前を走って横切り、いつもの教室まで来ると、中に猟奇的なマスクをした者の姿があった。

 川村さんは教室の後部に立っていた。視線を止めたまま、俺は静かに教壇まで歩いた。


「やっぱりか」と川村さんは言った。


「やっぱり?」


「これは君には通用しないんだな、今はっきりわかった」


「無砂利場さんを放してください」


 川村さんの腕には、無砂利場さんの姿があった。泣いていて、暴れたのか服が少し乱れている。


「この子、無砂利場っていうのか。変わった名前だね」


「放してあげてください」


「放さなかったら?」


 俺は教卓の横で止まった。机の間の細い道が、真っすぐ二人のところまで続いている。


「あなたを殺さないといけない」


 俺たちは離れた距離から向かい合った。


「僕はね……僕は、君みたいなガキが一番嫌いなんだよ、実は」


 川村さんは言った。


「弱虫だろ、君?」


「ナイフを置いてください」


「でもそれは僕も同じなんだ、僕も弱虫でね、むしろ子供である君の方が強いかもしれない。子供は性質的に大人に甘えて話す節があるから、瞬間的にいきがって、強い口調で言ってみたりするだろ、でもそういう若さゆえのものって、だんだんとなくなってくるんだよ」


「霧が晴れても、何もなかったことになんかなりませんよ、僕は覚えてますから」


 川村さんは無砂利場さんを開放した。すると妙なことに、無砂利場さんは静止しなかった。彼女は涙を手の甲で拭きながら、もつれそうな足取りで教壇まで歩いた。俺の傍で止まった。

 川村さんはしばらく黙ったまま、俺と無砂利場さんをじっと見た。


「……綺麗な子だ。他の生徒には、まだどこか小便臭い未熟さを感じる。彼女は少し大人びていて、でも完全に大人ではなくて、ちゃんと未熟さもある。でも小便臭い感じはしない。君が守りたがる理由も分からなくはない」


「そういうわけじゃ……」思わず否定した。


 川村さんはマスクを脱ぎながら言った。「青春ってやつか」


 マスクを脱ぐと、二〇代半ばくらいの男性が現れた。顔は青白く、日焼けしていない感じだ。気のせいか涙袋が若干くすんでいて、表情が薄暗く見える。


「購買部の……」川村さんは購買部の販売員に似ていた。


「頭の片隅くらいには残るよな。昼の間だけだけど、僕は平日は毎日この学校にいる。人通りの少ない北の下駄箱と駐輪場の狭間で、よく君に牛乳プリンを売る。昨日は友人に奢ってもらってたね、ちゃんと牛丼は奢ってあげたかい?」


「……まだです」


「そうか、お礼は早めに返しなよ? 友達を大切にしないと、僕みたいな大人になってしまうよ」


 川村さんは椅子に座った。机にナイフを置いて、両肘をついて、重ねた手の甲に顎を乗せた。


「彼女が友人と購買部に訪れる際、その近くには必ずと言っていいほど君がいる」


 顔が熱くなってきた。


「君は分かりやすい……僕には分かるよ。離れていく彼女の背中のラインや、まるで水面のしぶきのような笑みを浮かべて友人と語らう横顔や、あるいはその艶やかな髪かな……とにかく、彼女を見つめる君の表情を、僕は何度か見てきた。まるで高校生の頃の僕だ、つらいだろうね。僕は三年も片想いをした。何も言えず、一度も話しかけることなく高校を卒業した。卒業して以降も引きずった、今でも想いが残ってる、たまに夢も見る。儚さは痛みに変わるんだ、いずれ君にも分かるかもね」


「だから若い女性に執着するんですか」


「安易な言い方だけど……そうかもしれない。僕に否定できることなんて、そもそもない。僕には意思がないし、主体性がない。僕のこれはただの作用だよ。ある人間社会が生み出した、瞬間的な、一過性の、必要悪として黙認されてきた些細な作用だ」


 言葉が呪文みたいに聞こえた。とりあえず、その手元にあるナイフが気になった。


「だから別に君のせいって訳じゃない、世の中には様々な偶然が蔓延っている。人がそれを自分のものとするのは苦しいからだ」


 川村さんはナイフの刃を指でつまみ、唐突に俺に向かって投げた。無駄のない慣れた手つきだった。即座に正面に浮遊力を展開した。その直後に、目の前に浮かぶナイフが見えた。


「うわ、すごい反射だ。まるで手足のように使うじゃないか」


 川村さんは声を上げて笑った。


「なに、これ……」


 怯える無砂利場さんに「俺から離れないで」と俺は言った。


「羨ましいな、すごく羨ましいよ、心臓が締め付けられるようだ。何度彼女を守る瞬間を想像したことか分からない、何度も何度も彼女を守ったんだ僕は、何度もね!」


 目を疑った。川村さんは泣いていた。静かに片方の目から涙を流していた。


「まるで僕の夢を体現しているみたいな、まるで……」


 涙を拭い、川村さんは言った。


「そのとてつもない能力を授かって、君はそれを必然だなんて思ったか? そんな偉そうな人間か、君は?」


「思ってないです」


「だろ。でも使っていくうちに、身を置くうちに、必然と思えてくることもあるんだ。濃霧はまるで僕の青春そのものだ。青春特有の浮遊感というものを知っているかい? これは奇妙な感覚でね、視界に薄いターコイズのような膜が覆うんだ。気持ちが軽くなり、得体の知れない幸福感があって、僕は深く物事を止める」


「さっきから、何を言ってるんですか?」


「そうだろ? なのに青春の真っただ中にいる君には理解しえないだろ?」


 川村さんは席を立って、机を指でなぞりながら「そうなんだよ、そういうことなんだよ」とぶつぶつ言いながら周りを歩いた。


「つまり青春というものは、一瞬以下の、刹那以下の観念でしかないんだ、記憶の中で美化された過去でしかないんだよ。そうだよ、そうだ、なんで気付かなかったんだ……。大嫌いだった席に着いて、机に触れて、黒板を前にして、それで初めて気付くなんて……。つまりこれはエンドルフィンみたいな脳内麻薬ってことじゃないか。でも、うん、そうだよな、遠ざかる過去なんて残酷なもの、僕らは耐えられないもんな。だから青春が噴き出すんだ、ぶしゃーって!」


 きらきらとぎらついた目が俺を見た。


「分かるかい、霜月くん? 美化して痛みを緩和してるってことなんだよ、少しでも。でもそうなると観念ですらないってことになるんだ。つまりこれはただの作用でしかない」


 目前が急に真っ白になった。俺は目を細めた。人影が見えた。突然に霧が掻き消されると、川村さんの狂気じみた笑みがあった。ナイフを手に襲いかかろうとしている。


「さあ、彼女を守って見ろよ、明確な意識でもって作用しろ!」


 突き出された刃先が左の横腹をかすった。ブレザーが丈夫で痛みはなかった。

 反発力を一気に前方へ放射した。川村さんは蹴られたサッカーボールのように後方へ飛んだ。教室の扉を突き破って背中から廊下に消えた。

 心臓がばくばくして、緊張だか興奮だかが収まらない。俺は思わず無砂利場さんの手を取った。


「無砂利場さん、行こう」


「……うん」


 二人で教室を離れた。渡り廊下を横断して職員棟の三階まで走った。体育館にすればよかったと思いながら、図書室の扉を開けた。


「隠れよう」


「ちょっと待って。あの人は何?」


 無砂利場さんは俺の手を振りほどいた。


「霜月くんも、なんだか変だし、ナイフが浮いてたし……」


「落ち着いて聞いて、今は説明してる時じゃない」


 無砂利場さんは混乱していて、怯えていた。どうにか落ち着かせたかった。


「あいつは俺が何とかするよ、でも守りながらはできない、そこまでの自信はない」


 いくらか訓練はしてきた。引力も反発力も即座に力の配分を調整できる。浮遊力の持続時間だって以前よりは増した。


「守りたいんだ、だから……」


「でも、じゃあ私はどうしたらいいの?」


「どこかに隠れっ――」


 背中に強く蹴られたような感触を受けた。反動のままに、俺はうつ伏せに床を擦って図書室の中に倒れた。すぐに襟を掴まれ、引きずりながら窓際まで連れていかれた。


「霜月くん!」


 無砂利場さんの声が聞こえた。川村さんの声が「そこにろ!」と怒鳴った。


「斥力がどうとかって言っていたな。つまりはあれだろ、念動力ってやつだ。すごいなー、羨ましいなー。結局、濃霧なんてものは僕自身の何一つ変えてはくれない。それに比べてどうだ、君の能力は天災的じゃないか、そりゃヒーローになりたくもなる」


「か、川村さんだって、使い方さえ間違えなければ」


「僕が一体何を間違えたって言うんだ、自分の欲望のために使って何が悪い、君のそれだって欲望だろう。言ってるじゃないか、つまりは作用なんだ。誰しも何かの影響下で作用する、作用することしかできないんだ、それを選択と思いたいだけだ」


 ナイフの刃が頬に触れた。


「君を殺すことにしたよ、そうすれば僕は自由だ。そしたらあの子は僕がもらおう」


 瞬間的に体が熱くなった。主に頭だ。

 俺は川村さんを突き飛ばしていた。図書室の本棚が倒れ、三つがドミノ状に倒れて止まった。川村さんは股を開いて尻餅をつき、本棚を背に笑い声を上げた。左方向に吹き飛ばした。窓際の壁に磔のようにしたまま、ずるずると上昇させて拘束した。


「怒りの奥に、蔑みが混ざってるね」


「ふざけるな」


「人が人を受けいれないとき、蔑むとき、目は、眼球は、はいつもよりも丸くなる。黒目がはっきり見えるくらいにまん丸で、魚の黒眼みたいだ。君は今、そんな目をしている」


 引力で背中を浮かして、反発力で壁に叩きつけた。川村さんは声を漏らし唾液を吐いた。


「嫌悪感ってやつさ、それが純粋であればあるほど目は丸くなる。恐ろしいよ? 悪寒もなく、ただ僕は反応して、反応を奪われて、目が合った直前の何か表情だけを留めたまま、動けなくなるんだ。僕は昔から女にとってのばい菌だったから、そういう眼は何度も見てきた」


「だからって」


「僕はやってない」


「……」


「僕は何もやってないよ、君が考えているようなことは、何一つやってない」


 気が付くと拘束を解いていた。川村さんは床に落ちると、何事もなかったかのようにぬくっと起き上がった。そして図書室の窓を開けた。


「ここは母校なんだ」


 風が入り込んできて、床に散らばっているいくつもの本のページがめくれた。川村さんの短い髪がなびいた。


「ねえ、霜月くん……スタンフォード監獄実験って知ってる?」


 川村さんは言った。


「僕はね、あれを信じてるんだよ……。色々苦しめられたけど、だから別に誰も恨んでないんだ。僕は女子生徒に話を聞いてもらっていただけさ。それだけさ」


「……話、ですか?」


「青春の話だよ、さっきしたろ? 君にとっての彼女のような人が、高校生のころ僕にもいたんだ。だけど僕は、ばい菌である自分を払拭できなくてね、だから一度も話しかけることはなかった。ところで、君の方は順調かい?」


 上手く答えられず、いい加減に言葉を濁した。


「濃霧は過去までは消してくれない、常に目の前の今にしか作用しないんだ」


 ――川村さんは飛び降りた。

 唐突だった。俺は反射的に動いて、窓際に駆け寄った。

 下を覗くと、オープンカットのタイルの上に、うつ伏せの状態で血を流す川村さんの姿があった。喉の奥から何か込み上げるものを感じて口を押えた。ぐっと堪えると、何も出てこなかった。

 もう一度、窓の外を覗いた。川村さんの姿はなかった。ここは三階だ。遠目でも分かるほどに流れ出ていた血の、その痕すら見当たらなかった。

 後ろが急に騒がしくなった。


「ちょっとちょっと、なんで倒れてるんだよ!」


 倒れた本棚や散らかった本を見て、図書室の住人たちが騒いでいた。窓の外と、それから室内にあった濃霧は、すっかり消えてなくなっていた。

 入り口付近に無砂利場さんの姿があった。なんだか落ち着きかない様子で、廊下と図書室を出たり入ったりして、きょろきょろしている。


「どうかした? 終わったよ?」


「……ん?」


 無砂利場さんは、何も覚えていなかった。


 〇


 携帯電話の持ち込みは校則で禁止されている。

 立山第二高校の教室棟、職員棟、実験棟――この三つを繋ぐ渡り廊下には、二階と三階に窓ガラスがついている。ガラスに銃痕のような、ひび割れた痕がいくつも見られ、それはエアーガンで撃ったBB弾がめり込んだものらしい。詳しくは知らない。ここら一帯は京都でも治安の悪い地域だと聞くが、抗争でもあったのだろうか。

 公立校なんてそんなもんだ。校則なんて破るためにあるようなもんだけど、俺は比較的律儀に守っている。

 誠も携帯は持っていなかったから、帰宅してすぐに大将に電話をかけた。受話器の向こう側から、微かにプーンと車両の走り抜ける音が聞こえて、「……どした?」とかったるそうな大将の声があった。


「外に出てんのか?」


「河原町」


「ふーん、町か。俺も行こっかなー」


「今日はあかんで」


「お前、語尾は?」


「ん?」


「語尾」


「隣に彼女いる」


「は?……」俺は絶句した。「彼女って、え、彼女いたの?」


「てかいないのミッチーだけやし」


 イラついいた。「……ござるって言えや」


「知らんわ」


 クソが、女が隣にいるからってカッコつけやがって。


「で、何の電話?」


「ハードボイルド気取ったみたいな話し方やめろ」


「用件を言え」


 俺は学校であったことを説明した。大将は「うーん」と悩むように低い唸り声を何度か言った。深く考えるとき、こいつはいつもこの音が出る。


「ミッチーが殺したん?」


「殺してない、自分から落ちた」


「ふーん……」


「何?」


「いや、それって勝敗はどうなるん?」


「勝敗って?」


「だから、能力者同士が能力を使って交われば、それはもう暴力でも事故でもなく、闘争やで」


「闘争って……確かに殺されそうになったから、だから俺も。まあ実際、俺自身に殺意があったかどうかは分かんないけど、でもそれなりに目的を持って能力は使ったよ。でも闘争って、これ闘争なのか?」


 大将は「はっきりせんなー」とかったるそうに言った。


「殺したら狙われるで?」


 俺は黙ってしまった。

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