1話


 放課後の教室に残るのは、彼女を一目見るためだ。


 教室のベランダから南へ向くと、グラウンドに部活動の風景が見えた。左側に野球部、中央にサッカー部。右側の上半分で、陸上部が短距離走の練習をしている。下半分がハンドボール部だ。グラウンドの西に体育館があって、その南には、校舎の隅に追いやられたかのようなテニスコートがあった。テニス部は部員が多い割に練習スペースが少ない。だからなのか、下級生などの練習は、オープンカットの大階段に硬式球を打ち付けることらしい。

 オープンカットは地下一階に向かって続く広域の階段と、広場のことを示す通称だ。それはこのベランダの眼下にあった。階段を二回下ると地下一階に到着し、下駄箱があって玄関口があり、目の前が広場だ。教室棟は地下一階から始まり三階まで続いている、実質四階建てだ。近くに大きな寺があるからだろうか、思い付きで建てたかのような、いい加減な作りをしている。

 軽快な打球音が校舎中に響いている。下を覗くと玄関口から鞄を背負った女子生徒が出てきた。跳ね返るボールに警戒しながら、大階段の西端を駆け上がっていった。


「帰らないのか?」人気のない教室から声がした。


 振り返り際に、丁度いいそよ風を感じた。砂の臭いがして、急に景色が不快になり、俺は教室に戻って鞄を背負った。


「そろそろ帰るか」


 教室の南の机だけが光沢を帯びていた。ベランダから夕暮れが差し込んでいる。教室を出ようとして、俺は反射的にぴたっと足を止めた。廊下の左から人が現れて、颯爽と横切っていった。甘い香りがした。さらさらと揺れる艶やかな長い黒髪が、廊下の東へ駆けて行く。気が付けば目で追っていた。目鼻立ちのいい涼し気な笑みを浮かべ、彼女の横顔は隣の教室に消えた。


「よかったな」


 背後で誠がにやにやしていた。


 初めて無砂利場むじゃりばさんを見たのは高一の夏ごろ、朝の全校集会でのことだった。当時、俺の教室は地下一階の東端にあった。そして彼女の教室はおそらく一階のどこかにあった。階層が違うというだけで、その一年はたまに見ることしかなく、すれ違うことも五回はなかった。年が明けた二月初頭にマラソン大会があった。その時、彼女の背中に「無砂利場むじゃりば」と書かれたゼッケンを見た。難しい苗字だと思いながら、嬉しくなり、そしてマラソンは始まった。それまで俺は、彼女の名前すら知らなかったのだ。

 二年生になりクラスが変わると、隣の教室に彼女の姿はあった。教室は違えど青春が開花する前兆くらいは見えた気がした。一歩距離は縮まったと、最初の頃はそんな実感もあった。でもあとは辛いだけだ。物理的なその距離はなんら意味を持たなかった、求めたのはもっと精神的な何かだった、その果てに物理的なものも求めたかもしれないが……。

 とにかく。以降、俺は彼女を見つめ続けている。へたれを通り越して自分でも気持ちが悪いと思うのは、俺が、隣の教室にすら「近づこうとしない」からだ。無砂利場さんとは一度も話したことがない。向こうも俺のことなんか知らないだろう。分かっている、これではストーカー予備軍じゃないかとも思う。が、今やどうしようもない。もっと早い段階で話しかけていれさえすれば、こんなことにはならなかったかもしれない。


 一年の冬、それから年を越えて春、夏、秋と、彼女は廊下を駆け抜けた。友人たちとの何気ない会話に、ほころぶ彼女の声が、放課後のベランダには聞こえる。グラウンドに目をやると、西の遠景から橙色の憂鬱が差し込んでいた。情景の外の遠くに吹奏楽部の音がする。


       〇


「あれが好機でないならお前にはもう無理だな」


 駅前のショッピングセンター「鳳凰ほうおう」のフードコートに立ち寄るのが、放課後の日課だ。建物の外観に店名を文字った「HOWOH」の文字があり、それが目印だ。

 すでに日は暮れていて、窓の外には群青色の闇が広がっていた。一八時以降は人が少なくなって、ここは若干快適になる。そんなくつろぎの場で、さきほど教室前で無砂利場さんとすれ違ったときのことを誠はぐちぐちと言ってくる。これもよくある光景だ。


「あの瞬間に話しかけろって?」


「瞬間とか言ってる時点で終わってる、瞬間なんて言うほど瞬間的でもなかった。普通に声はかけられたはずだ、へたれなければな」


「瞬間というか、むしろスローモーションだったよ」


 誠は「鯉に恋した鯉」と言って茶化した。いつも言うが、意味は知らない。おそらく本人も知らないだろう。

 フードコートには他校の制服を着た女子の姿もあった。無意識にも俺はその中に彼女の姿を探している。ここで出会ったことはない。廊下を駆け抜ける彼女の姿が、まるで残り香のように頭の中に広がって、映写機は同じシーンばかりを流し続ける。俺には横顔しか見えない。


「むずかしいんだよなー」


 俺は説教臭くなってきた雰囲気を誤魔化した。


「むずかしく考えてるからだろ」


「じゃあお前だったらなんて話しかけるんだよ」


「お前がなに考えてるか当ててやろう」誠は話をそらして、「いきなり連絡先きくとか、いきなり告白するとか、なんかそんなこと思ってないか?」


「……は?」


「図星か」


「思ってないよ!」


「だとしたらミチカ、この先お前が青春を謳歌するためには一つしかない」


「……なんだよ」


「諦めることだ」


「え」


「無砂利場さんのことはきっぱり諦めて、それで他の惚れてない女子に告白しろ」


「頭おかしいだろ、なんで好きでもない女に告るんだ」


「お前にはとにかく、女が必要だ。まずは女をつくって恋人を持つ感覚を知ることだ」


 誠には彼女がいる。色白で、年中おたふく風邪みたいな顔をした奴だ。猫をかぶった喋り方と目が笑っていないところが俺は嫌いだ。あれはキレたら包丁か何か尖ったもので刺してくるタイプだ。なのに誠は極度に浮気癖が酷く、付き合って半年もしないうちにもう一人女をつくった。これまた色白で、年中おたふく風邪みたいな奴だった。違いは下級生であることくらいか。


「そしたら無砂利場さんと結ばれない理由が少しは分かるさ」


「……どうでもいいわ」


 盛りのついたおたふく女とぱこってろ、とは言わなかった。


       〇


 翌朝の天気は不可思議だった。

 支度を済ませ、玄関の扉を開けてすぐ、俺は足が止まった。外が真っ白だったからだ。


「霧……」


 濃霧というやつだ。この辺りは山に近いこともあって、年に数える程度には霧が見られる。ただ今回のこれは濃さが違った。まるでスティーブン・キングの「ミスト」のようだ。ガレージの自転車にまたがり路上に出ようとして、少しぞっとした。ここらは閑静という訳ではないし、家の前の道路は交通量もそこそこ多い。なのに辺りが静かに思えた。ひんやりとした空気が漂っている。

 路傍を少し走りはじめると、一台の車が傍を通り抜けていった。ちゃんと前は見えているんだろうか。

 住宅街を抜けて醍醐寺に入った。境内は広く、道には砂利が敷いてあり車も通ることがある。表通りは交通量が多く危ないこともあり、いつからかここが通学路になった。アスファルトではないから自転車だと若干走りにくく、あまりスピードは出せない。だから遅刻しそうな時は表通りを使う。注意されそうなもんだが、通り抜けに使っても誰にも何も言われないし、学校に苦情がいったなんて話も聞かない。それにここは風情があっていい。境内を南から北に抜けて自転車を走らせた。


 駐輪場から下駄箱に向かう際、思わず立ち止まって校舎を見上げた。二階の窓から上が、雲海に呑まれたみたいに何も見えなかった。振り返ると駐輪場も真っ白だった。

 二年生の下駄箱は地下ではなく、一階の、校舎の北にある。駐輪場の傍だ。そこまで来ても辺りは白かった。

 ふと思った、生徒の姿が見えないと。それだけでなく声も、足音もしない。

 映画の世界に入り込んだような不思議な感覚のまま、傍の階段から二階の教室へ向かおうとして、階段の途中で足を止めている男子生徒の背中に出くわした。


「……」


 階段の真ん中で、片足だけ次の段にかけて止まっている。変な奴だ。関わらないように階段の端から静かに上った。

 校舎内は風通しがいい、渡り廊下などは二階も屋外と同化している。だからなのか、二階の廊下も霧で前が見えない状態だった。

 俺は習慣的に渡り廊下を南に歩き進んだ。そして左手の教室棟の入り口に差しかかる直前、教室棟の方から女子の叫び声が聞こえた。非現実的な雰囲気にはしゃぐマイルドヤンキーたちの姿が思い浮かんだ。右手の一つ目の教室を通り過ぎ、自分の教室の前まで来たところ、一度思考が止まった。


「たっ、助けて……」


 廊下の先に、見知らぬ覆面の姿があった。海外のヘヴィメタルバンド――Slipknotスリップノットのような猟奇的なマスクだ。その腕には同級の女子生徒の姿があり、顔にナイフを突きつけられていた。


「んあ、なんだお前?」


 ――男の声だった。


 女子生徒は男に黙るように脅されながら、じっとこちらを見つめた。ぐっと堪えているような、切迫した泣き顔だ。

 なんで俺なんだ、他に空手部とか、柔道部の屈強な男子がいるだろうに、よりにもよって……。

 そこで教室の中で沈黙している、大勢の姿を見た。直立不動の男子生徒や、椅子に座り、笑った顔を蝋人形のように維持する女子生徒。机に鞄を下ろそうとした途中で停止したような男子生徒、教室から廊下に出ようとして右足を上げたまま固まっている女子生徒。みんな、魂を吸われたかのように両目が空虚だ。それは低品質な水晶のように、白く濁っていて薄気味悪い目だった。口も開けっぱなしで動く気配がない。

 生き生きとした瞬間が止まっている。中には無砂利場さんの姿もあった。


「おい、なんで動けるんだよ」


「え」


「止まってろ、動くな!」


 男は腕に捕まえていた女子生徒を静かに解放した。すると生徒の瞳が教室内の生徒たちと同じ空虚なものとなり、立ったまま固まった。涙が頬に流れるのが見えた。

 ナイフを片手に近づいてくる。マスクの中からぐちぐちと声が聞こえる。


「逃げるなよ、そこにいろ」


「く、来るな……」


「お前ノーマルか? なんで動けるんだ?」


 怖い……殺される。足が勝手に後退いた。

 足が絡まってバランスが崩れる。俺はその場に尻餅をつき、顔を上げた時には、目の前に男とナイフの姿があった。腕を掴まれ、俺は声も出せず、その突きつけるように構えられた刃先に怯えるしかない。


「――うっ、うわ!」


 怖くなって目を瞑った。

 何か打ち付けたような音がした。恐る恐るゆっくり目を開けてみると、男は目の前にはいなかった。廊下の壁に片手をつき、ナイフを落とし、腰を痛いそうに押さえていた。額に汗を浮かべながらこちらを睨んでいる。そしてどういうことなのか、廊下の全域にかかっていた濃霧が消えかかっているように見えた。


「なんの、能力だ?……」


 視界に、落ちているナイフが映った。

 俺の視線に気づくと、男は焦るように立ち上がりナイフを拾った。何か迷うみたいに、小さく右往左往する動作が一、二秒あり、刺されるのかと思ったが、逃げるように立ち去った。

 しばらくして廊下の濃霧が消えた。各教室から賑わいが聞こえてきた。


「どうしたんだよ、こんなとこ座って?」


 誠が見下ろしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る