第3話 二千年の星竜、本気を出す

 ゆっくりと扉を開けて現れたのは、夜の闇よりも深い白と金の礼装を纏った男。

 この国の次代を担う琥珀の瞳の持ち主――王太子、ゼファレス・ファ・ヴォルシュタインだった。

 白色の正装。その左袖だけが空虚に揺れていた。

 ――その謂れには様々な憶測が飛び交っていて、本当のところは分からない。しかしそれもまた、彼の野心を象徴していた。


「……酷い挨拶だな。王族の歩みに、が牙を剥くとは」


 ゼファレスはカグツチの視線など意にも介さず、優雅に、けれど圧倒的な威圧感を伴って歩を進めてくる。

 彼の背後には、王家の象徴たる漆黒の枯れ枝のような竜種の影が、テラス全体を覆い尽くさんばかりに揺らめいていた。


「不敬ですよ、ゼファレス殿下。カグツチは、家畜などではありません。誇り高き、アグレストの――」


「誇り、か。言葉で飾れば実力が伴うとでも思っているのか、ルシア・ヴァレット」


 ゼファレスは私の言葉を鼻で笑い、カグツチを見下すように目を細めた。

 敢えて、ミドルネームからスピカを抜いた。

 竜継の儀まで正式に名乗らないとは言え、貴族の礼儀として成人前の貴族に対してミドルネームを抜いて呼ぶことは、竜なしと蔑む意味を持つことを彼は知ってか知らずか。


「昨日、運良く格上に勝った程度の名もなき竜を、あのアグレストのが御しきれるはずもない。道具は、身の丈に合った者が持たねば、ただの凶器だ」


 彼は私との距離を詰める。一歩、また一歩。


「君のような純血の歴史を、あんな泥臭い男に預けるのは、この国の損失だ。……君の価値は、もっと高い場所にあるべきだとは思わないか?」


 ゼファレスの手が、私の頬に伸ばされる。

 それは、親愛などではない。

 希少な宝石の鑑定を終え、自分のコレクションに加えようとする蒐集家の、冷たくて残酷な手つきだった。


「君のような女がいれば――どんな野心も、正統な王道として語られる」


 ここでその手を振り払ったとして。

 相手は歴史が浅いとはいえ王族だ。

 王族と言えどヴァレットに手を出せば他の貴族から反感を買う。そんな自滅をこの王太子が選ぶとは思えない。

 恐らく――カグツチに、アグレストに罪を着せるだろう。


 白い指が、ためらいもなく私の頬へ触れようとした――その瞬間、カン、と靴音。

 カグツチが私の前に立っていた。


「彼女は主の許の人だ。――触れれば、剣を抜く」


 ほんの一瞬の静寂。

 その間が致命的になり得るほど、危うい空気が重く伸し掛かる。

 沈黙が、刃のように張りつめた。


 カグツチの言葉はおよそ王族に向ける言葉ではなかった。

 本来なら竜種が、王位継承者に反論するなど、死罪に問われてもおかしくはない。


 私は思わず息を呑む。

 けれど、すぐに立ち直った。

 私は――ヴァレット家の令嬢。

 ヴァレットとアグレストはいずれ一つになる。

 カグツチはいずれ家族になるのだ。

 この場を制するのは――カグツチの羽を折りたたむのは、私がやらなければいけない役目だ。


 ゼファレスの隣では、漆黒の竜種が沈黙を保ったまま、確実にカグツチを捉えている。

 このままでは、剣が抜かれる。


 言葉ではなく、力の場に引きずり込まれる――。


 王族と決闘で済めばそれでいい、しかし不敬罪を持ち出されてアグレストを叩かれれば、いくらヴァレットの名があろうと守りきれない。


 その瞬間、私の背中を押すように風が吹いた。

 背筋を伸ばし、裾を揺らしながら膝を――折ろうとした、瞬間。


「ルシア、顔を上げて」


 会場からテラスへと続く扉が、音もなく開いていた。

 耳元で響いたのは鈴の鳴るような――けれど夜の空気を支配するほど通る声。

 驚いて目を見開いた私の視界に、星明かりが乱反射し青白銀に輝くスピカの髪が――後ろ姿が割り込む。


 二メートルを超える巨躯が、私とゼファレスの間に立ち塞がる。

 それは、どんな言葉よりも雄弁に――私を守るという意志を示していた。


「君には僕がいる。――そして」


 スピカは、私を庇ってゼファレスの前に立ったカグツチの頭に、ぽんと手を置いた。


「カグツチ。よくやったね、偉いよ。……君がルシアを守るために牙を剥いたこと、僕が――そしてヴァレットの二千年の歴史が全部肯定してあげよう」


 カグツチは驚きに、固まってしまった。

 王族に楯突いた罪が、二千年の歴史を持つ星竜王の手によって、誇り高い騎士の務めへと書き換えられた瞬間だった。


 スピカはそのまま、顔を青ざめさせているゼファレスへと、心底退屈そうな視線を向けた。


「さて、王太子の坊や。うちの若いのをなんて安い言葉で呼んでくれたね。……僕を目の前にして、その言葉がどれほど不敬か、君の血に刻まれている『ファ』の記憶に聞いてごらん?」


「……な、何を。貴様、竜種の分際で……!」


「分際、か。面白いことを言うね。君の先祖が、僕の足元に跪いて守ってくれと泣きついてきたのは、僕にとっては昨日のことなんだけどな」


 スピカが一歩、踏み出す。

 ただそれだけで――ゼファレスの背後にいた漆黒の竜種が、小さく息を呑んだ。

 その巨体が、わずかに震えている。

 そして何も言わず、一度も振り返ることなく、扉の向こうへと姿を消した。

 ゼファレスは漆黒の竜種の背中を睨みつけたが、竜は二度と戻ってこなかった。


「歴史を重んじるのがこの国のルールだろう? ならば二千年分の不敬を今ここで清算させてもらおうか」


「……おい、俺は次期国王だぞ?」


「王? ……ふふ、あははは! 面白いねぇ、ルシア。このは、自分が歴史を作っているつもりらしい」


 スピカは冷たく笑い、ゼファレスの喉元に、白く細い指先を突きつけた。


「いいかい、坊や。君たちの命は瞬きだ。僕という歴史の前では、王冠も、血筋も、チョコフォンデュの一滴ほどの価値もない」


 スピカの目がいつもの慈愛に満ちたものではなく、捕食者の目になった。

 竜種という生き物は穏やかな性格なのでつい忘れそうになるが――竜種とは牙を隠しているだけで、本来は人間を圧倒する生き物なのだ。


「これ以上、僕のかわいいルシアを怖がらせるなら――」


 私もカグツチも息を呑んだ。


「僕が貴族たちに泣きついて見せようか。二千年も生きた可哀想な竜が、若造にいじめられたって、涙ながらにね」


「えっ」「えっ」


 私とカグツチの声が重なる。

 スピカ、あなた、今なんて。


「全貴族の敬愛を集める僕が、ホールに飛び込んで『王太子に角を折られそうになった』なんて言えば……。坊や、君は王太子でいられるだろうか。やってあげようか?」


 スピカの顔は、夕方のドレス選びで「ルシアは白!」と力説していた時と同じ、純粋な悪戯っ子のそれだった。


「き、貴様……プライドと言うものはないのか!? 仮にもヴァレットの名を背負っておきながら出てくる言葉とは思えないぞ!?」


「プライドで大切な人を守れるのなら、僕はいくらだって差し出そう。竜種は尽くす生き物――その執着を甘く見ると、取り返しがつかなくなるよ」


 ゼファレスは喉元に突きつけられた白く細い指先を、死神の鎌でも見るような目で見つめていた。

 先ほどまでの傲慢さは霧散し、ギリと鳴る奥歯の音だけがテラスに響く。


「……ッ、貴族め、竜ともども必ず滅ぼしてやる」

 

 彼はそのまま、一度も振り返ることなく、逃げるように会場の喧騒へと消えていった。

 その背中には、今は何もできない者の――けれど確実に機会を窺う者の、冷たい怨嗟が滲んでいた。


「……スピカ」


 私がようやく呼ぶことができた声は、情けないほど震えていた。

 スピカは、いつもと同じ穏やかな顔で振り返る。

 その指先には、まだ微かにチョコの甘い香りが残っていた。


「あーあ、せっかくの世界で一番かわいいお姫様の表情が台無しじゃないか。あんな三歳児のせいで、ルシアの綺麗な目が曇ってしまった」


 彼は私の眉間を、またあのぐりぐりでほぐし始める。


「スピカ、あなた……本当に、不敬どころの話ではありませんよ」


「いいんだよ。僕にとってのルールは、いつだってヴァレットだけなんだから」


 彼は悪戯っぽく笑い、それからまだ呆然としているカグツチの肩を叩いた。


「さあ、アルトを迎えてあげたらどうだい? 君は今日、ちゃんとお兄さんの顔をしていたよ」


 最初は言い間違えたのかと思った。

 カグツチは三百歳で、確かにアルトより年上だが――どちらかと言えば弟気質なところが目立つ。

 いや、でも――ふと、さっき王太子の前で私を庇ったカグツチの横顔が脳裏をよぎる。

 あの時のカグツチは、確かに――誰かを守る者の顔をしていた。

 

 それを聞こうとするより先に扉が開いて、少し疲れた顔のアルトが顔を見せた。


「アルトー! お疲れ様! 社交、大変だった?」


 カグツチが駆け寄り、二メートルを超える巨体をアルトに伸し掛からせる。

 その声は、さっきまでの凛とした調子ではなく――まるで子供のように甘えた声色だった。


「ああ、少し疲れたけど、大丈夫だよ」


 アルトが優しくカグツチの頭を撫でる。


 ――あ。


 私は思わず息を呑んだ。

 さっき王太子の前で私を庇った時のカグツチと、今アルトに甘えているカグツチ。

 まるで、別の竜のようだった。

 ひょっとしてカグツチはアルトの前ではわざとそうしているのではないか――スピカの言葉のおかげで、そんな疑問が湧いた。

 とは言え、カグツチはいつもこうだ。

 アルトと、それからその隣で笑っているカグツチ――この風景は、私の幸せの象徴でもあった。

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