はじまりの試合

 そして日曜日。試合当日。

 天気は快晴。青々と晴れ渡る空からは、案の定憎たらしいほどに太陽が照りつけている。

 普通に考えたら、絶好の野球日和だろう。

 でも、実際に外に出ていると分かる。そんなこと冗談でも言えないくらいに暑すぎる。もはや地獄だ。なんでも、この夏一番の暑さらしい。

 最近じゃ異常気象とかで、ただでさえ高温になりやすいのに、その中でも一番とかほんとにやばすぎる。

「なぁ、のぶた……俺さ、帰っていいかな」

 試合前のアップ。額に滲む汗を拭いながら、キャッチボールをしているのぶたについ愚痴をこぼす。

「なに言ってるんだよ。まぁでも、今回ばかりはその気持ちもわかるけどさ」

 そう言いながら、のぶたは俺に向かって球を投げ返してから、グラウンドを指さす。

「でもさ、見てみなよ」

 のぶたが指さした先――そこに広がっていたのはファルコンズのノック風景だ。

 強豪らしくきびきびとした動き。みんなまるで機械のように淡々と熟している。

 外野手はフライの落下地点に迷いなくまっすぐと走り、内野手はしっかりと腰を落としてゴロを捕球する。

 きっと身体に教え込まれているのだろう。次にどう動くのかがあらかじめ決まっていて、そう動くことが自然で、当たり前のように感じる動き。

 一目見ただけで分かる。

 ――上手い。

 噂に違わない、強豪チームが目の前に存在していた。

「こんなの生で見せられたらさ、夏ならぜったいわくわくするでしょ?」。


 ――夏よりすごい子なんて。そのうちすぐに出てくるんだから。


 ふと、咲の言葉が頭の中で響く。

「まぁ、たしかにわるくないな」

 そうのぶたに返答しながら、胸に広がる期待を抱きつつ、俺は微かに武者震いをする。

 守備練習だけでこれだけ上手いと感じさせるのだ。きっと打撃も相当凄いに違いない。そんな強敵に、正面からぶつかっていける――投手をやっていて、これ以上に楽しい瞬間なんてきっとないだろう。

 気づけば胸に宿る闘志のせいか、少しだけ暑さが気にならなくなっていた。


 その後、俺たちも試合前のシートノックを行ったあと、準備が整ったところで審判から集合の合図がかかる。

 その声によって、グラウンドの真ん中に両チームが集まり、整列する。

 対面する両チーム。

 ふと、視線を前に向けると、俺の前に女子が立っていることに気づく。

 そういえば、相手チームのエースが女子だとか言ってたな。

 だが、正直意外だ。

 正面に立つ女子に目を向けると、まだあどけなさの残るその表情はかわいらしく、肩まで少し届かないショートカットがとてもよく似合っていた。野球をやるだけあって、快活そうな雰囲気を感じさせる。

まさかこんなにかわいいとは思わなかった。

失礼かもしれないが、野球ができる女子なんてきっとゴリラみたいなやつなんだろう、と想像していたのだ。

 俺は改めてその顔を覗き見る。

 だが、次の瞬間――。

 その顔に似合わない、ものすごく鋭利な目つきで、睨まれてしまった。

 ――うわ、こわ!

 せっかくかわいいんだから、そんな顔しないほうがいいのに。

強豪チームのエースなんて、これくらい強気じゃないと務まらないのかもしれないが、ここまで闘志を剥き出しにしなくてもいい気がする。

 それとも、気づかないうちに何か失礼なことでもやってしまったのだろうか。だが、思い返しても、心当たりなんてない。

 ……そう考えている間もずっと睨まれ続けてしまう。

 まぁ、とりあえず今は試合に集中しよう。


 だが、その時の俺はまだ知らなかった――この試合がある意味、自分の人生を変えるほど重要な試合となることに。



 両チームのキャプテン同士で行うじゃんけんで勝ったファルコンズが先攻を選び、中原子ども会と宮内ファルコンズの試合は、ファルコンズの攻撃から始まろうとしていた。

 だがそんな中、ファルコンズのベンチでは試合が始まるというのにエースで三番を打つ、五年生の少女――葉月夏希は不機嫌そうな表情を浮かべていた。

「おーい、夏希ったら、なんでそんな不機嫌なのさ?」

 ふと声をかけたのは、これから打席に立つはずの一番打者――鈴木進である。ちなみに、ポジションはセンターであり、ファルコンズの一番を務めているだけあって足が速く、快足を活かした外野守備も魅力の好選手だ。

「べつに、不機嫌なんかじゃないわよ。ただ、相手のあの投手、あいつがなんかなめた目つきでこっちをチラチラ見てきたのよ。きっとあたしが女子だからって、あいつ舐めてんのよ」

 そう言いながら、鋭い目つきで相手投手を睨む。

「あー、なるほどねぇ。夏希のこと舐めてるかどうかはわかんないけど、たしかになんか自信満々って顔してんな」

「うん、ぜったいこてんぱんにしてやる」



 一回表。ファルコンズの攻撃。一アウト二塁。

 立ち上がり、先頭打者である進を塁に出すと、送りバントで進塁を許していた。

 ヒットを打たれれば先制点が入る状況。

 夏は汗をぬぐいつつ、次の打者へと目を向ける――そして、眼を見開いた。

そこには先ほど自分を睨んできた少女が立っていたのだ。

 ――ピンチの場面で迎えたのが、女子とは拍子抜けだが、ラッキーだと思ってさっさと打ちとろう。

 そんな油断が表情に出ていたのか、ムッとした表情で夏は睨まれてしまう。

 同世代の女子にここまで睨まれる経験がなかったので、少しばかり動揺する。

「おーい、夏希! 監督の指示おぼえてるよなー、いくら打てそうだからって初球から打つなよー」

 そんな時、二塁にいる進から、夏希に声がかけられる。

「うるさいなぁ。こんな球が速いだけの投手なんて、見ていく必要なんてないでしょ。打てそうだと思ったらさっさと打つから!」

 少女――夏希からも、まるでヒットを打つなんて簡単だとでもいうような返答がされる。

 ――おもしろい。

 そんな状況に、動揺から高揚へと夏の心情は変化をしていく。

 相手は同学年の女子。

 そしてその女子に、ただ球が速いだけ、打てそう、そんな感情を抱かれている。

 強豪チームだといっても、いくらなんでも舐めすぎだ。

 夏の中で、絶対に抑えようという意思が強くなっていく。

 そのせいだろうか、夏は完全に走者のことを意識の外に追いやり、忘れようとしていた。

 考えているのは、目の前に立つ打者を完膚なきまでに抑え込むこと、それだけだった。

 その思いが影響したのだろう、ここで夏は一つの選択をし、改めて大きく振りかぶった。

「ワインドアップ⁉」

 二塁ランナーの進が驚きの声を上げ、慌てて三塁に向かって走り出す。

 驚くのも無理はない。

 大きく振りかぶって投げる動作であるワインドアップは強くて速い球を放ることはできるが、通常走者がいない時や三塁にだけいる時などに使用する。今のように走者が二塁にいる時などはセットポジション――振りかぶらずに素早く投げる動作――をとるのが普通だ。

 ワインドアップは振りかぶる動作があるため、モーションが大きく、セットポジションよりも投げるまでに時間がかかるからだ。走者からしたら、盗塁し放題というわけである。

 だが、夏にとっては、三塁に走者を進めることなんてどうでもよかった。

打者に打たれなければ点は入らない。

 つまり、ワインドアップは打者勝負――絶対に打たれないという夏の決意と自信の表れだった。

 案の定、三塁への盗塁を許してしまうが、投じた直球はど真ん中のコースを通過し、のぶたのミットから乾いた衝撃音を響き渡らせる。

「ストライーク!」

 打者の夏希は眼を見開き、驚きの顔で夏を見つめる。

 すると、夏は、

「お前らさ、いつでも打てるようなこと言ってるけどさ――」

 夏希の顔をしっかりと見て、


「打てるもんなら打ってみろよ」


 そう声を上げていた。

「………………」

 途端に、静けさがグラウンドを支配する。

 試合中にあるまじき宣戦布告とも言える大胆な行動。その場の全員が驚き唖然としていた。

「ちょっと君! 相手への挑発や暴言等は控えるように。さっきから両チームとも私語が多いよ、以降気を付けて」

 当然、審判から注意の声が挙がる。

挑発とも言える行為に、審判が良い印象を受けるはずがない。下手をすれば今後の試合展開にさえ影響を及ぼしてしまうかもしれない。

 だが、それでも夏は自分が舐められている現状、それに対して黙っていることなんてできなかった。

「うわ……ばかがいるわ」

 そんな夏の心情とは裏腹に、三塁走者である進が笑みを浮かべる。

試合を観戦していた人も何人か微笑を浮かべていた。

 夏としても、即注意されてしまったので、周囲の状況も相まって少しだけ恥ずかしさがこみ上げてくる。

 周囲の暑さとはまた違った意味で、顔に熱が籠り、仄かに赤く染まっていくのが自分でも分かった。

 しかし、そんな中――。

「いいぞ―夏、その調子でファルコンズなんておさえちゃえ!」

 幼くも爽やかで、そしてどことなく暖かく感じる声援が響く。

 咲だ。

 夏にとって唯一の理解者。どんな時でも自分を応援してくれる女の子――咲がいつもと変わらない満面の笑顔で、ピースサインを夏に向けていた。

 その姿を見ると、羞恥心や力みといった雑念、余計な感情が消えた気がした。

 不思議と周りの反応や、相手が女子であること、強豪チームに怯えるチームメイト、そのすべて――夏にとって、雑念ともいえる周囲の状況が気にならなくなっていた。

 今、意識にあるのは夏の日差しに照らされた真っ青な空と手に握る白球、そして自分を応援してくれる少女――咲だけだった。

 それから一呼吸置くと、夏は改めて大きく振りかぶり、その後ゆっくりと右足に乗せた全体重を大きく踏み出した左足へと移動させ、前へ前へと全体重をかけていく。 

 そして、次の瞬間――。

 腕を思い切り振り、空気を切り裂きながら、すべての力を指先から押し出した。

 放たれた白球が、ただただまっすぐに突き進む。

 そして、


 ――――バチン!!


 のぶたの乾いたミットの音が、今までよりもはるかに大きく。そして、周囲の空気を震わせた。

 渾身の直球がのぶたのミットに収まった。

 ふと、打者の様子を覗うと、はっきりと眼を見開いていたのが分かった――。



 葉月夏希は驚愕していた。

 走者がいるのにも関わらずワインドアップをしてきたこともそうだし、自分に対して大声で啖呵を切ってくることにも、もちろん驚いた。

 だが、一番驚いたのは相手投手が投げるその直球だ。

 市大会初戦の相手なんて、という油断があったことは否定できない。

 けれど、これが県大会だとしても同じように驚いていたと思う。

それほどまでの直球。

 今、目の前のマウンドに立つ同学年の男子が投じていることが信じられない気持ちでいっぱいだった。

 そして、また先ほどと同じフォームでさらに速さを増した直球が、文字どおり唸りをあげて空気を押しのけながら自分へと向かってきた。

 ――振らなきゃ!

 そう思い、ただがむしゃらにバットを振る。

 かろうじて直球にバットを当てることはできた。

 しかし、新たな衝撃が夏希を襲う。

「ファール!」

 後方へと弾け飛んでいく白球。

 信じられないほどに重みを感じたのだ。

 自分では意図していないファール。傍から見てもはっきり分かるほど、球威に押されてしまったファールだった。

 その後も、唸りを上げた直球が襲い掛かってくる――かろうじてファールにしてはいたが、球の勢いに押されているのは、誰の目から見ても明らかだった。

 ――打たなきゃ!

 夏希は迫り来る直球に、ただただ必死で食らいついていった――。



 夏は自分のピッチングに手ごたえを感じていた。

 今までの中で、文句なしのベスト。

 だが、それと同時に目の前の現状に衝撃を受けていた。

 自分と同年代の女子、明らかに自分より体格で劣っている相手――華奢な女の子が今、自分の直球に食らいつき続けている。

 自分では空振りをとれると思っている直球が、何度も何度も何度もバットに当てられ、ファールとなり続けている。

 気づけば十球ほど粘られてしまっていた。しかも、だんだんと自分の直球にタイミングが合ってきている。

 ふと、咲の言葉が脳裏をよぎる。


 ――夏よりすごい子なんて、そのうちすぐに出てくるんだから


 自然と、夏は微笑を浮かべていた。

 そして、大きく振りかぶり、のぶたの構えるミット目がけて、渾身のど真ん中直球を投げ込んだ。



 ――きた!

 夏希は、ある球をひたすら待っていた。

 単純明快な配球――ただ純粋に捕手めがけて直球で押すだけ。

 いつか甘いコースに直球が投げ込まれるのは分かりきっていた。

 虎視眈々と待っていたど真ん中の直球――それがついに投げ込まれたのだ。

 ファールで粘りつつ、タイミングを徐々に合わせていた夏希にとって、この直球にバットを合わせることは容易だった。

 夏希の頭の中では爽快な金属音が鳴り響いた。


 ――⁉


 だが――現実は違った。

 ――ゴン!

 青空に響き渡るいつもの乾いた金属音とは明らかに異なる。

 文字どおり鈍い音としか表現できないような、醜い音が耳を震わせて、それが現実であることを突き付けてくる。

球威に押された――。

 しかし、それでも構わず力の限りバットだけは振り抜いた。

 結果。

 白球は青空に向かって、力なく打ちあがっていく――。

 けれど、皮肉にも前進守備をとっていた内野手の後方、外野手との間にぽつんと落ちた――見事なまでのポテンヒットだった。

 完全に合わせたつもりだった。

 それなのに、あそこまで力なく打球が飛ぶなんて、いつもならあり得ないことだった。

 だけど、その答えは自分では分かっている。いや、だれの目から見ても明白だった。


 ――ただ純粋に、夏の直球、その球威に押されてしまった。


 否定しようもない事実が、自分の手の感触にたしかに残っていた。

 迷わず振り切ったことで、なんとか内野の頭を越すことはできたが、技術では勝ったものの、力勝負で負けていたのは紛れもない事実だった。

 打ち損じとは違う――単純な筋力の差。女子である自分の限界を感じさせるような、純粋なまでに力のこもった直球だった。

 とはいえ、その間に俊足を飛ばして進がホームへと帰還し、初回からファルコンズが先制したのだった。



 夏は、自分の中にぽっかりと穴が開くのを感じていた。

 自分史上最高の球を外野まで運ばれ、走者をホームに返してしまったのだ。

 今までになく手ごたえのある直球――それを自分と同世代の女子に外野まで運ばれた。

 認めたくない現実、それが夏の心に広がる。

 今まで以上の力を出せた、もうこれ以上ないってほどの投球ができた。

 でも。それでも。真っ向勝負で。

 

 ――俺、負けたのか。


 そう思った瞬間、張り詰めていた緊張感、研ぎ澄まされた集中力、好調な投球を支えていたものが崩壊していった。

 野球をやっていて、周囲のエラーで点を取られ、負けたことはある。だが、今回は完全に自分自身の責任でとられた失点だった。

 人より速い球を投げれたので、打たれるという経験をあまりしたことがなかった。

 だからこそ、初めての経験は、まだ小学生である夏の精神状態を揺らがせるのには十分だった。

 一度揺らいでしまった集中力を取り戻すのは難しい。夏が夏希に対してできていた最高の投球は失われていった。

 結果、すぐ後に続く四番打者のバットからも乾いた金属音――まさに轟音とも言えるような快音が響き渡ってしまう。

 あっという間に、センター後方へと弾け飛ぶ打球。

 文句なしの本塁打だった。

 気の抜けたような力のない棒球――それを先ほどと同じように真っ向からど真ん中に投げてしまった。

 打たれたのは必然とも言えた。

 その後もすぐに気持ちを切り替えることができなかった夏は、結果として連打を浴び、初回から三点も失ってしまった。



 一回裏。中原子ども会の攻撃。

 ベンチに座る夏は茫然とする。そして同時に、自分に辟易していた。

つい、悔しさで唇を噛みしめてしまう。

「おい、夏。次、夏の打席だぞ」

 ふと、のぶたから声をかけられる。

 気づけば三番打者の自分に打順が回ってきていた。

 一、二番が、続けて三球三振に倒れていたため、通常よりすぐ自分の打順が回ってきていた。

 打席に入り、相手投手へと目を向ける。

 自分が立っていたマウンドには、先ほどの少女――夏希が立っていた。

 相も変わらずこちらを睨んでいた。

 夏希は大きく振りかぶり、右足へとじっくりと体重を乗せていく。グラブを前方へと向けつつ、左足を大きく踏み出し、右足から左足へと一気に体重を移動させていく。

 胸を張り、回転する腰を通して、下半身から上半身へと連動する力。

弓なりに胸を張り、腕と手首を器用にしならせて、そのすべての力が指先へと集約されていく。


 そして、次の瞬間――


 先ほどまで少女が持っていた球が一気に夏の目の前を糸を引くように通過していた。

 その球に反応することもできず、動くことすらできなかった。

いや、正確には動こうとすらしていなかった。

 ただただ純粋に、心の奥底から。


 ――きれいだ。


 同年代の女子が投げるその直球に――その投球フォームに見惚れてしまった。

 流れるような動作、スムーズな体重移動。そのどれもが華麗で、そして美しかった。

 自分もこういう風に投げてみたいという気持ちが沸き上がってくる。

 どうすればあんな風に投げられるのだろうか。

 何をすればあそこまでの域に到達できるのだろうか。

 あんなふうにまっすぐで、純粋にきれいな直球を投げることができたら、どんな気持ちだろうか。


 あんな風になれたら、きっと、きっと――。


 けれど、その時の夏にはきっとその答えは分からない。

 ただ羨望の眼差しを向け、華奢な少女を羨むことしかできなかった。

 自分よりも小さな少女――夏希の投球に、どうしようもなく惹きつけられ、目を奪われてしまっていた。

 その後の二球のことを夏はよく覚えていない。

 彼女の投球に見惚れ、気づけば三振していた。

 最後の三球目は、振り出したバットの上を通過した完璧な空振り三振だった。それだけは、後々になって思い出すことができた。


 三回が終了したころ、スコアボードにはファルコンズの欄に十という字が刻まれ、中原子ども会の欄には0という字がひたすら並んでいた。

 十対0のコールド負け。

 夏希の投球に対して、ただ一人の走者も出すことができず、それどころか誰一人として、打球を前に飛ばすことすらできなかった。

 九者連続三振――三回参考ながら完全投球を許してしまっていた。

 大敗だった。

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