未現像の夏、僕らの色

淡綴(あわつづり)

第一話:ラムネのアイスと、開かないシャッター

 二〇二六年の冬は、すべてを拒絶するような静かな白に包まれていた。 三十五歳になった僕、みなとは、書斎の古い引き出しの奥に指を這わせた。指先に触れたのは、安っぽいプラスチックの硬い質感と、経年劣化でわずかにベタついた感触。


 二十七枚撮りの、使い捨てカメラ。


 それは二十四年前、ある「怪物」が僕に託した、未現像の記憶の塊だった。


 プラスチックの窓から覗くカウンターの数字は『0』を示している。


 二十七枚すべての光がこの暗い箱の中に閉じ込められ、一度も印画紙の上に引きずり出されることなく、四半世紀近くの時間を眠り続けているのだ。


 カメラを手に取り、巻き上げノブに親指をかける。


「ジ、ジ、ジ……」


 空回りする乾いた音が、静まり返った部屋に響いた。


 その瞬間、僕の脳裏には冬の白さを塗りつぶすような、あの暴力的なまでの夏の「青」が蘇った。 溶け出したアスファルトの匂い。


 鼓膜を突き刺す蝉時雨。


 そして、僕の隣で、壊れそうなほど激しく脈打っていた、彼女の鼓動。


 僕はゆっくりと瞳を閉じた。


 現像しなかったのではない。現像する必要がなかったのだ。


 あのフィルムに焼き付いた光は、今も僕の瞳の奥で、鮮明な残像として揺らめいているのだから。




「……湊くん、それ、あげる」


 二〇〇二年、八月。


 十七歳の凪沙なぎささんの声は、夏の陽炎に揺れて、どこか遠い場所から聞こえてくるみたいだった。


 当時十一歳だった僕は、彼女の隣に座り、お互いの肩が触れるか触れないかの距離で、溶けかけたラムネのアイスを舐めていた。僕の背丈はまだ彼女の肩にも届かず、見上げる彼女の横顔は、空の青さをすべて吸い込んだような、透明で、けれど底の知れない深淵を湛えていた。


 凪沙さんが差し出してきたのは、黄色いパッケージの使い捨てカメラだった。


「自由研究、まだ終わってないんでしょ? これで、湊くんが見た『夏の秘密』を撮ってきなさい」


 僕はアイスの棒をくわえたまま、そのカメラを受け取った。


 指が触れた瞬間、凪沙さんの手が、びくりと跳ねた。


「お姉さん? 手、小鳥みたいにバタバタしてるよ」


 僕が不思議そうに訊ねると、彼女は慌てて手を引っ込め、膝の上で自分の指を強く握りしめた。その指先は、夏の熱気の中でも白く凍りついているように見えた。


「……暑いからよ。……心臓が、少し早くなっちゃっただけ」


 彼女は嘘をついた。


 当時の僕にはわからなかったけれど、彼女は僕を「見て」いたのだ。


 十一歳の僕の、まだ子供特有の柔らかい曲線を描く首筋や、無防備に開かれた膝、アイスで汚れた唇。


 彼女の中に棲む「怪物」が、僕という獲物を前にして、檻を突き破ろうと暴れていた。彼女はそれを必死に、自らの倫理という鎖で繋ぎ止め、その摩擦熱に焼かれながら僕の隣に座っていたのだ。


「……ねえ、湊くん。大人になれば、何でも撮れるようになるよ。名前だって、自由につけられるようになる」


 凪沙さんは、海の方を見つめたまま、独り言のように呟いた。


「でも、今はまだ、名前をつけちゃダメ。……このカメラの中にあるものは、ずっと『秘密』のままにしておいて。……いい?」


「うん。約束するよ」


 僕はカメラを構え、ファインダーを覗き込んだ。


 小さな四角い枠の中に、凪沙さんの横顔が収まる。 逆光の中で、彼女の髪の毛一本一本が金色の光を帯びて輝いていた。


「……撮らないの?」


 彼女が、僕の方を振り返った。


 その瞳の奥には、僕を喰らいたいという欲望と、僕を汚したくないという絶望が、マーブル模様のように混ざり合って渦巻いていた。


 僕はシャッターを切ろうとして、指を止めた。


 ファインダー越しに見る彼女があまりに綺麗で、それをたった一枚の紙切れに固定してしまうのが、いけないことのように思えたからだ。


「……まだ、いいや。だってお姉さん、今にも泣きそうな顔をしてるんだもん。……もっと、いい顔をした時に撮るよ」


 僕がカメラを下ろすと、凪沙さんは一瞬、呆然とした顔をした。


 それから、堰を切ったように、小さな、けれど激しい溜息をついた。


「……本当に、湊くんは、……残酷な子ね」


 彼女はそう言って、僕の頭を乱暴に、けれど祈るように優しく撫でた。


 その手のひらの熱さを、僕は今でも覚えている。

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未現像の夏、僕らの色 淡綴(あわつづり) @muniyu

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