第4話 神喰らいの箱舟
その日、王都の空気は、蜂蜜を溶かしたように甘く、そして熱かった。
路地裏のパン屋が焼く香ばしい小麦の匂い。花屋の露店から溢れる百合と薔薇の芳香。そして何よりも、広場を埋め尽くす数十万の人々が発する、爆発的な歓喜の熱気。
それらが黄金色の陽光の中で混ざり合い、世界はこれ以上ないほどの祝福に満ちていた。
「勇者様万歳!」「俺たちの英雄に栄光あれ!」
「ありがとう! ありがとうリオン様!」
「キャーッ! ガッド様こっち向いてー!」
降り注ぐ紙吹雪は、まるで色とりどりの雪のようだった。
王都のメインストリートをゆっくりと進む凱旋パレード。白馬に引かれた豪奢なオープン馬車の上で、僕は隣に座るセレナの手を握りしめていた。
彼女の手は緊張で少し汗ばんでいて、壊れ物を扱うように僕の手を握り返してくる。その薬指には、僕が旅の途中で贈った、不恰好だけれど精一杯の想いを込めた銀の指輪が光っている。
「……すごいね、リオン。みんなが笑ってる」
セレナが潤んだ瞳で僕を見る。純白の聖女の衣に包まれた彼女は、この世界の誰よりも美しかった。
その瞳に映るのは、魔王の恐怖に怯える民衆ではない。明日の希望を信じて笑う、生き生きとした人々の姿だ。
母親に肩車された子供が、一生懸命に手を振っている。老夫婦が涙を流して拝んでいる。若い恋人たちが抱き合っている。
「ああ。これが、僕たちが守りたかった景色だ」
「うん。……やっと、終わったんだね」
彼女が僕の肩に頭を預ける。その心地よい重みこそが、平和の証だった。
後ろの席では、相棒の戦士ガッドが樽のようなジョッキを片手に、豪快にビールを煽っている。
「ぷはぁっ! 最高だぜ! おーいそこの美人さん! 今夜の予定は空いてるか!? 俺様は魔王の角をへし折った男だぞ! 特等席で武勇伝を聞かせてやるよ!」
「ちょっとガッド、はしたないわよ。英雄としての品位を持ちなさい。子供たちが見てるでしょう」
魔導師のアイラが杖でガッドの脇腹を小突きながらも、その口元は緩みっぱなしだ。眼鏡の奥の知的な瞳は、ようやく訪れた平和な学究生活への期待で輝いている。
「痛ってぇなアイラ。お前も堅苦しいこと言ってねえで飲めよ! 今日は無礼講だ!」
「私は学会への報告書があるのよ。……でも、ま、今日くらいはいいかしら」
仲間たちの笑い声。愛する人の体温。
完璧だった。
泥水をすするような野営も、死と隣り合わせの迷宮も、仲間が欠けそうになったあの雨の日も、すべてはこの瞬間のためにあった。
これからは、血と鉄の匂いではなく、焼きたてのパンとスープの匂いに包まれて生きるんだ。
剣を置き、鍬(くわ)を持ち、この愛する人とともに土を耕し、小さな家を建てて――。
未来は、約束されていた。
疑いようのない「ハッピーエンド」が、すぐそこに待っているはずだった。
この幸せが明日も、明後日も、五十年後も続くと、僕は疑いもしなかった。
――ピキッ。
その音は、鼓膜ではなく、脳髄を直接爪で弾かれたような、不快な響きを持っていた。
「……ん?」
ガッドがビールを飲む手を止める。
最初は、誰も気づかなかった。数十万の歓声とファンファーレにかき消されるほどの、小さな音だったからだ。
だが、音は止まない。
ピキ、メリメリ、パリーン……。
硬質な音が連鎖する。
まるで、巨大な氷山が内側から崩壊していくような。あるいは、世界の骨組みがきしむような音。
一人の踊り子が足を止めた。演奏していた吟遊詩人がリュートを下ろした。
ざわめきが、さざ波のように広がる。
「……ねえ、リオン。空……」
セレナの声が震えていた。
僕は視線を上げる。
そして、呼吸が止まった。
異常だった。
雲ひとつない抜けるような蒼穹(そうきゅう)に、白い「亀裂」が走っていた。
それは空という概念に入ったヒビではない。まるで空が描かれた巨大な「ガラスの天井」が、寿命を迎えて割れ始めたかのような光景。
「おい、なんだありゃ……」「空が、割れてるのか?」
歓声が消えた。
寒気立つような恐怖のざわめきが王都を包む。
亀裂は生き物のように枝分かれし、王都の上空を覆い尽くしていく。その隙間から、ドロリとした黒い液体のような闇が滲み出し始めていた。
本能が告げていた。
逃げろ、と。
あれは見てはいけないものだ。この世界の住人が、決して触れてはいけない「外側」の深淵だ。
だが、足が動かない。
あまりの理不尽な光景に、魂が縫い付けられていた。
そして。
世界の臨界点が、突破された。
ガシャアアアアアアアアアン!!
天地を揺るがす轟音。
空が、落ちてきた。
物理的に砕け散った「青空の破片」が、巨大な雹(ひょう)となって降り注ぐ。
鋭利なガラス片となった空の残骸が、地上の美しい建物を破壊し、逃げ惑う人々を切り裂いた。
「ぎゃあッ!?」
「痛い、痛いよぉ!」
屋根が抜け、石畳が砕ける。鮮血が花びらのように舞う。
だが、本当の地獄は、空が落ちたことではない。
剥がれ落ちた空の向こう側にあった、「真実」だ。
空の向こうには、星のない、無限の漆黒が広がっていた。
冷たく、無機質で、死よりも深い漆黒。
その闇の奥から、こちらを覗き込む「影」があった。
「……あ……あぁ……」
誰かの引きつった悲鳴が、静寂を切り裂く。
次元の裂け目から、ヌルリと侵入してくる巨大な質量。
遠近感が狂うほどのサイズ。山脈よりも巨大な何かが、物理法則を無視して浮遊している。
一つではない。
13体。
13の絶望が、空を埋め尽くしていた。
先頭に現れたのは、冒涜的なまでの「機械」の集合体だった。
赤錆びた歯車、脈動する極太のパイプ、千切れたケーブル。それらが複雑に絡み合い、辛うじて獣の形を成している。
関節の隙間から汚れた油を垂れ流し、蒸気を上げながら、眼下の王都を見下ろしている。その「顔」には目も鼻もなく、ただ無機質なレンズが不気味に明滅していた。
その隣には、ボロボロの黒い布を纏った、巨大な人型の何かがいた。
背中には不釣り合いなほど美しい、純白の翼が生えている。
だが、顔がない。
黒い布で覆われた顔面には、ただ一つ、笑っているような三日月型の「口」だけが裂けていた。
さらに奥には、首のないピエロのような巨人が、狂ったような動きで手足をくねらせている。
巨大な鏡の蛇、腐敗した塔、氷の鯨……。
鑑定スキル? 通用するわけがない。
理解などできるはずがない。
あれは魔物ではない。生物としての次元が違う。
魔王ゼノスが放っていた威圧感が「殺気」だとしたら、あれらが放っているのは「無関心」だ。
人間がアリの巣を覗き込む時、アリに殺意を抱くだろうか?
抱かない。ただの「観察」か、あるいは「掃除」の対象でしかない。
僕たちは、彼らにとっての害虫なのだ。
一番手前にいた、錆びついた機械の塊のような影。
その腹部が、ゆっくりと開いた。
3. 鉄と殺意の暴雨
空の裂け目から、無数の黒い点が投下された。
それは雨ではなかった。
ズゥゥゥゥン!!
地響きと共に、巨大な鉄塊がメインストリートに着地した。
パレードの列が吹き飛び、美しい石畳がクレーターに変わる。
もうもうと立ち込める土煙の中から現れたのは、錆びた装甲と極太のケーブルが絡み合った、全長20メートルはある機械の獣だった。
形状はライオンにも、恐竜にも見えた。だが生物的な滑らかさは一切ない。
ギチギチと不快な駆動音を立て、排気管から黒煙を吐き出している。
その口には、牙の代わりに回転する粉砕機(グラインダー)が埋め込まれていた。
「ヒッ、あ、あぁ……」
逃げ遅れた親子が、腰を抜かして震えている。母親が子供を抱きしめ、後ずさる。
機械獣の赤いセンサーが彼らを捉えた。
獲物としてではない。進行方向にある障害物として。
「やめろぉぉぉッ!」
近くにいた王宮騎士団の兵士たちが槍を持って飛び出す。
彼らは魔王軍とも戦った精鋭だ。その連携に隙はない。
「市民を守れ! 突けぇぇ!!」
隊長の号令と共に、十数本の槍が、機械獣の関節や装甲の隙間を正確に突いた。
――ガギンッ。
硬い音がしただけだった。
傷一つついていない。錆びついているように見えた装甲は、この世界のどんな金属よりも硬かった。ミスリル製の槍先が、逆に折れ飛ぶ。
機械獣は、攻撃されたことすら気にしていないようだった。
ただ、進行方向に「ゴミ」があったから踏んだ。それだけのこと。
グシャッ。
巨大な鋼鉄の足が、兵士たちを槍ごと、鎧ごと踏み潰す。
トマトが潰れるような音と共に、人間が赤いシミに変わる。
足の裏から、ひしゃげた兜と肉片がこぼれ落ちる。
「あ……」
母親の悲鳴すら出なかった。
機械獣はそのまま、震える親子に向けてその巨大な顎を開いた。
ガガガガガッ!
アスファルトごと、石造りの家ごと、親子は粉砕機に飲み込まれた。
バリバリという破砕音。
そして排気口から、ミンチとなった肉片が排気ガスと共に撒き散らされた。
「……は?」
僕は呆然とそれを見ていた。
理解が追いつかない。王国最強の騎士団の攻撃が通じない?
しかも、空を見上げれば、あんな化け物が雨のように降ってくる。
王都は一瞬にして、巨大な屠殺場へと変貌した。
絶望は地上だけではなかった。
空に浮かぶ「黒い布の天使」が、そのマントを広げた瞬間。
中から無数の白い影が飛び出した。
数百、いや数千。
それは、人間の形をしていた。
背中には美しい純白の翼が生えている。
だが、首から上が異常だった。
頭があるべき場所に、巨大な「眼球」が一つだけ乗っている。
瞼はなく、濡れた強膜がギョロギョロと動き回っている。
眼球頭の天使たちが、羽虫のように空を埋め尽くす。
その一つが、逃げ惑う群衆を見つめた。
カッ、と瞳が光る。
音もなく白い熱線が降り注ぎ、石造りの時計塔がバターのように溶けて崩れ落ちた。
「迎撃せよ! 魔導師部隊、一斉射撃!」
王宮の魔導師団が空へ向けて杖を振るう。
炎、氷、雷。色とりどりの攻撃魔法が空を埋め尽くす弾幕となって放たれた。
これだけの密度なら、かわせるはずがない。
だが。
空を覆う数千の眼球天使が、一斉に反応した。
彼らは魔法が放たれる瞬間を「視て」いた。
マナの予兆、軌道、着弾点。すべてを完全に見切り、紙一重で回避したのだ。
ヒュン、ヒュン、ヒュン。
風を切る音だけが響く。
一発も当たらない。雨の中を濡れずに歩くかのような、異常な回避能力。
「ば、馬鹿な……全弾、避けられた……?」
魔導師長が呆然と空を見上げる。
直後、数百の眼球が彼を見下ろした。
カッ!
集中砲火。
肉体が蒸発する音だけが響く。
「うわあああ! なんだよこれ! なんなんだよ!」
「助けて! 誰か助けてええ!」
地獄だった。
剣は通じない。魔法は当たらない。逃げれば空から焼かれ、隠れれば機械獣に家ごと噛み砕かれる。
王都は、人間の悲鳴と肉の焼ける匂いで充満した。
僕たちは戦っているのではない。ただの「餌」として、処理されているだけだ。
「あぁ神よ……! 始祖の神々よ、お救いください!」
絶望に染まる広場で、大司教が血を吐くように叫んだ。
人々も祈った。地面に額を擦り付け、涙を流して祈った。
もう、縋れるものは神しかいない。
僕も祈った。誰でもいい、助けてくれと。
その時。
王都の大気が震えた。
「――嘆かわしい」
重厚な声が、天から響いた。
それは、恐怖に震える数十万の民の心に直接語りかける「御言葉(みことば)」だった。
「我らは契約により、地上への干渉を禁じられし者」
「故に、魔王の暴虐すら歯噛みして見過ごし、人の子(勇者)に託した」
ゴゴゴゴゴ……!
王都の広場に設置されていた「五体の巨大な石像」が、眩い光を放ち始めた。
僕たちが旅の無事を祈り続けた、この世界の守り神たち。
白銀の龍、炎の巨人、大地の精霊獣、蒼天の騎士、黄金の魔導王――。
「だが、理(ことわり)は破られた」
「『外』より来たる侵略者よ。貴様らが土足で踏み荒らすなら、我らもまた禁忌を破ろう」
数千年の間、沈黙を守り続けてきた石の殻が弾け飛び、中から純粋な魔力で構成された実体が現れる。
「おお! 伝説は本当だったんだ!」「守護神様が目覚めたぞ!」
パニックになっていた人々が、歓声を上げる。
僕も震える手でその光景を見た。
神様は、僕たちを見捨てていなかった! ルールを破ってまで、僕たちを守るために立ち上がってくれたんだ!
「我らが庭を穢す者は何奴か! 消え失せよ!」
炎の巨人が咆哮し、巨大な拳を振り上げた。
その一撃は、空から降りてきた機械の獣を捉え、数百メートル彼方まで吹き飛ばした。
白銀の龍が空を舞い、神聖なブレスを放つ。
空を埋め尽くしていた眼球天使の群れが、聖なる炎に焼かれて次々と爆散する。
蒼天の騎士が剣を振るえば、不可視の斬撃が機械獣を両断する。
「いける! 神様なら勝てる!」
「悪魔どもを追い払え!」
僕たちは希望を見た。
守護神たちは強かった。魔王すら凌駕する圧倒的な神威。
これなら、撃退できるかもしれない。
だが。
空の「13の影」たちは、怯むことすらなかった。
巨人の拳で吹き飛ばされた機械の獣は、空中で体勢を立て直すと、全身のパーツをガチャガチャと再構成した。へこんだ装甲が一瞬で元通りになる。
龍神に焼かれた眼球天使たちは、灰の中から分裂し、逆に倍の数に増殖した。
そして、「影」たちが笑った気がした。
反撃は、一瞬だった。
錆びついた機械の獣が、炎の巨人に飛びかかる。
神の炎すら意に介さず、その回転鋸のような牙が、巨人の腕を、肩を、首を、バターのように削り取っていく。
「グオオオオッ!?」
巨人の悲鳴。
再生が追いつかない。機械の獣は、巨人の核を正確に抉り出し、噛み砕いた。
ドォォォン……。
炎の巨人が崩れ落ち、ただの溶岩の塊へと戻っていく。
続いて、大地の精霊獣。
空から降ってきた黒いヘドロのような液体が、精霊獣の巨体に付着する。
ジュワァァァ……。
腐食。精霊獣の岩の皮膚が、泥のように溶けていく。
精霊獣は苦し紛れに暴れるが、ヘドロは全身を包み込み、その存在を跡形もなく消化してしまった。
「嘘、だろ……」
二柱の神が、あえなく消滅した。
希望は、絶望を深めるための演出でしかなかったのか。
力の次元が違う。これは戦争ではない。
上位種による、下位種の「駆除」だ。
残された三柱の神(白銀の龍、蒼天の騎士、黄金の魔導王)は、悟ったようだった。
彼らは敵に背を向けず、かといって無謀な特攻もせず、王都の上空で三角形の陣を組んだ。
『……勝てぬか』
『外の理は、我らの力では祓えぬ』
彼らの声が、悲痛な響きを持って世界に広がる。
彼らの身体が、まばゆい光の粒子となって崩壊し始める。
自らの命そのものを、莫大な魔力リソースへと変換しているのだ。
『せめて、種を残そう』
『希望を繋ぐ、道標(みちしるべ)を』
「な、何をする気だ……?」
僕が見上げる中、三柱の神は、空の亀裂――敵が出てきた場所とは違う、何もない虚空へ向かって、そのエネルギーを照射した。
敵を攻撃するのではない。
ブゥゥゥゥン……!
空間が振動する。
複雑怪奇な幾何学模様の魔法陣が、空に焼き付けられる。
幾重にも重なる円環。未知の言語。
それはまるで、どこか遠くの世界へ信号を送るような、あるいは「何か」をこの世界に招き入れるための道を開くような、厳かで不可解な儀式だった。
空の侵略者たちが、初めて「不快」そうに動いた。
機械の獣が、咆哮と共に光の儀式を食い止めようと跳躍する。
黒い布の天使が、翼を広げて遮ろうとする。
だが、遅かった。
三柱の神は、自らの肉体を盾にして攻撃を受け止めた。
龍の翼が千切れる。騎士の鎧が砕ける。魔導王の杖が折れる。
それでも彼らは詠唱を止めなかった。
『――理(ことわり)を繋ぐ。希望の種を、彼方より招かん』
最後の一節と共に、空に巨大な光の柱が突き刺さった。
そして、三柱の神は満足げに微笑み、光の粒子となって消滅した。
後に残ったのは、静寂と、空に薄っすらと残る光の痕跡だけ。
敵は無傷。
何も起こらない。
「なんだったんだ……今の……」
僕は呆然と呟いた。
命を賭けて、あれだけ?
敵を倒すわけでもなく、僕たちを守るわけでもなく、ただ空に光を撃って死んだ?
意味がわからない。
神々は、僕たちを見捨てて、わけのわからない儀式をして死んだのか。
守ってくれる存在はもういない。
この世界は、皮を剥かれた果実のように、捕食者たちの前に晒されたのだ。
守護神という盾を失った地上は、本当の地獄と化した。
神殺しを終えた機械の獣たちが、再び人間たちに牙を剥く。
「ガアアアアッ!」
機械獣が、瓦礫の下のガッドを見つけた。
粉砕機のような口を開け、迫る。
「ガッドォォォォォォ!!」
僕が叫ぶ。ガッドは血まみれの顔で、ニカっと笑った。
その笑顔は、いつもの豪快なものではなく、友を案じる静かなものだった。
「リオン……逃げ、ろ……」
グシャッ。
機械獣の顎が閉じる。
ミスリルの盾ごと、ガッドの巨体が飴細工のように噛み砕かれた。
僕の親友だった肉塊が、機械の中に飲み込まれていく。
最期に残った手首が、虚しく地面に落ちた。
「いやぁぁぁぁ! ガッド! ガッドぉぉ!!」
アイラが半狂乱になって駆け寄ろうとする。
彼女の頭上、空を埋め尽くす数百の眼球天使が一斉に光った。
カッ。
無数の熱線が、一点に集中する。
アイラを中心とした空間が、白く染まった。
「あ」
アイラの身体が、一瞬で蒸発した。
悲鳴を上げる間もなかった。
水分が飛び、骨が灰になり、存在そのものが消し飛んだ。
後に残ったのは、焼け焦げた杖の破片だけ。
「あ、あ……」
喉が引きつる。呼吸ができない。
ガッドが潰れた。アイラが消えた。
ほんの数分前まで、一緒に笑っていたのに。
未来を語り合っていたのに。
なんで。どうして。
「リオン! 立って!」
セレナの声に、僕は弾かれたように顔を上げる。
彼女は顔面蒼白になりながらも、腰を抜かした僕の手を強引に引き上げた。
「生きなきゃ! 私たちだけでも、生きなきゃ!」
「で、でも、ガッドが、アイラが……!」
「お願いだから走って! リオン!!」
彼女の悲痛な叫び。
彼女の手は氷のように冷たかったが、爪が食い込むほど強く僕を握っていた。
その痛みだけが、現実味のある唯一の感覚だった。
僕たちは走った。燃え盛る王都を、死体と瓦礫の山を越えて。
どこへ逃げればいいのかも分からない。
王城も、神殿も、すべて燃えている。
僕たちは本能のままに、狭く入り組んだ路地裏へと逃げ込んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
肺が焼けるように熱い。
足がもつれる。
だが、止まることは許されない。
背後から、奇妙な音が近づいてきているからだ。
シャン、シャン、シャン。
楽しげな、鈴の音。
煙の向こうから、三つの人影がゆらりと現れた。
派手な衣装を着た、背の高い道化師(ピエロ)たち。
だが、その顔は悪夢そのものだった。
まぶたと唇が、太い黒糸で荒々しく縫い付けられている。
目も口も開かないはずなのに、彼らは正確に僕たちを「視て」いた。
喉の奥でケタケタと笑い声を上げながら、関節のない人形のようにクネクネと手足を曲げ、踊りながら近づいてくる。
「……ひッ……」
後ろから逃げてきた市民の生き残りが、ピエロを見た瞬間、立ち止まった。
そして、糸が切れたように笑い出した。
「アハハハハ! 綺麗だ! 血の色は綺麗だなぁ!」
「ああ、目が痒い! 目が邪魔だ!」
男が自分の指を目に突っ込み、ブチブチと眼球を引き抜き始めた。
隣の女は、自分の舌を噛み切って踊り出した。
狂気。
あのピエロは、物理的な攻撃だけじゃない。その姿を見るだけで、音を聞くだけで、人の精神を破壊する猛毒を撒き散らしているのだ。
「う、ぐぅ……ッ!」
僕の視界も歪み始めた。
世界が極彩色に明滅する。
笑いたい。死にたい。叫びたい。自分を壊したい。
支離滅裂な命令が脳を駆け巡る。
「しっかりして、リオン! 飲まれないで!」
セレナが叫び、杖を掲げる。
「聖なる光よ、邪悪なる狂気を払いたまえ――『聖域(サンクチュアリ)』!」
淡い黄金色の結界が僕たちを包み込む。
頭痛が少しだけ和らいだ。
だが、ピエロたちは止まらない。
あざ笑うようにステップを踏みながら、結界の周りを踊り回る。
トン、とピエロの指が結界に触れた。
パリン。
ガラス細工よりも脆く、聖女の全力の結界が砕け散る。
通用しない。
この世界の「魔法」という理屈そのものが、彼らには通じないのだ。
「そんな……嘘……」
セレナが絶望に顔を歪める。
ピエロたちが、じりじりと包囲を狭めてくる。
逃げ道はない。後ろは崩れた壁だ。
僕たちは、袋小路に追い詰められた鼠だった。
死が、目の前にあった。
それは恐怖というよりも、冷たい確信として僕の心臓を鷲掴みにした。
「……あ、あ……」
過呼吸が始まった。
目の前のピエロが、かつて僕を嘲笑ったクラスメイトに見えた。
崩れた壁が、暴力を振るう父の背中に見えた。
まただ。
僕はまた、何もできずに奪われるんだ。
役立たずのゴミ。いらない子。誰からも愛されない、灰色の存在。
この世界に来ても、僕は結局、無力なリオンのままだったんだ。
守りたかった人たちを、誰も守れずに。
「リオン」
不意に、セレナが僕の手を握った。
その手は震えていた。氷のように冷たかった。
けれど、痛いほど強く、強く握りしめていた。
「こっちを見て」
彼女は僕の頬を両手で包み込み、無理やり視線を合わせた。
彼女は泣いていた。
恐怖で泣いているのではなかった。
慈愛と、悔しさと、そして深い愛情がない交ぜになった瞳で、僕を見つめていた。
「そんな、捨てられた子犬みたいな顔しないで」
「……セ、レナ……?」
「大丈夫。君は、もう一人じゃない」
心臓が跳ねた。
彼女は、言葉にならない僕の怯えを、全て理解していた。
過去の傷も、劣等感も、今この瞬間の絶望も。
「君が自分のことをどう言おうと、誰がなんと言おうと……私にとっての君は、世界で一番優しくて、かっこよくて、温かい英雄だよ」
彼女の声は震えていたが、力強かった。
周りの爆音や狂気の笑い声が、遠くに聞こえるほど、彼女の言葉だけが鮮明に響いた。
「君が私を救ってくれた。君が私に、生きる意味をくれた。……その事実は、どんな化け物だって消せやしない」
「……っ!」
涙が溢れた。
彼女は知っていた。僕がずっと抱えていた「無価値感」を。
それを、彼女は命がけで肯定してくれた。
「だから……生きて。お願い」
「な、何を……」
彼女の身体から、生命力を燃やすような眩い光が溢れ出す。
それは防御魔法ではない。
敵の注意を、自分一人に引きつけるための「挑発」の光。
「こっちよ! 化け物たち! 私が相手よ!」
セレナが叫び、僕を瓦礫の隙間の穴へと突き飛ばした。
同時に、崩れかけた壁に向かって衝撃波を放つ。
ガラガラと瓦礫が崩れ、僕の入った穴を塞ぐバリケードとなる。
「セレナ! やめろぉぉぉ!!」
僕は瓦礫の隙間から手を伸ばす。
だが、届かない。
ピエロたちが一斉に、光を放つセレナへと群がる。
彼女は杖を構え、震える足で立っていた。
その背中はとても小さく、華奢で、けれど誰よりも気高かった。
彼女は振り返らなかった。
ただ、背中で語っていた。
――愛してる、と。
「来ないで……リオンには、指一本触れさせない……!」
先頭のピエロが、長い腕を伸ばした。
セレナの抵抗虚しく、その大きな手が彼女の細い首を掴む。
まるで、野花を摘むような優しさで。
ゆっくりと、彼女の身体が持ち上げられる。
「あ……が……ッ」
セレナが苦しげに足をバタつかせる。杖が手から滑り落ち、カランと乾いた音を立てた。
縫い付けられたピエロの口が、糸を引きちぎらんばかりに三日月形に歪んだ。
笑っている。
この絶対的な悲劇を、極上の喜劇として楽しんでいる。
シャン。
鈴が鳴った。それが合図だった。
ブチブチブチッ。
不快な音。
筋肉が断裂し、頸椎が引き剥がされる生々しい感触が、音だけで伝わってきた。
「やめろ……やめろやめろやめろ!!」
僕の絶叫は届かない。
ピエロの手首が、無慈悲に回転する。
ポンッ。
軽い音がした。コルクを抜くような、軽い音。
鮮血の噴水が舞い上がり、美しい聖女の衣を赤く染め上げる。
首を失ったセレナの身体が、ビクンと一度だけ痙攣し、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
そして。
ピエロの手からゴミのように捨てられた「それ」は、石畳の上を転がり、僕が隠れている瓦礫の隙間の前で止まった。
銀色の髪。血に汚れた頬。
見開かれた瞳は、最期の瞬間まで僕の無事を祈っていた。
僕と目が合ったまま、彼女はもう、二度と瞬きをしない。
転がった左手には、僕が贈った指輪がまだ光っていた。
金色の種が、主の血を吸って、皮肉なほど赤く、美しく輝いている。
…………。
音が、消えた。
ピエロの笑い声も、遠くで響く爆発音も、風の音も。
世界からすべての音が消え失せ、白いノイズだけが脳内を埋め尽くす。
あ。
あ、れ……?
セレナ?
なんで、そんなところに転がってるの?
痛くないの?
ねえ、起きてよ。
君は言ったじゃないか。
僕と一緒に生きてくれるって。
僕を、一人にしないって。
約束、したじゃないか。
思考が、空転する。
脳が、目の前の現実を拒絶する。
涙すら出てこない。悲しみという感情が追いつかない。
あまりにも巨大すぎる喪失は、人の心を一瞬で「無」にするのだと知った。
僕は、動かなくなった彼女の瞳を、ただ虚ろに見つめ続けていた。
近づいてくるピエロの影すら、もうどうでもよかった。
だって僕の世界は、今ここで終わったのだから。
世界は僕に優しくない。魔王を倒した対価がこれですか? ころん @koronmarble
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