第3話 偽りのカーテンコール
「――ガハッ……!」
肺から空気が強制的に絞り出される。
魔王ゼノスの振るった巨大な剛剣が、僕の横腹を深々と抉っていた。
熱い。痛い。視界が赤と黒に明滅する。
けれど、僕は倒れない。倒れるわけにはいかない。
「リオン!!」
後方からセレナの悲鳴のような回復魔法が飛んでくる。
光が傷口を包み込むのと同時に、僕は自らのスキル『自己再生』を最大出力で発動させた。
抉られた腹の肉が、蒸気を上げて沸騰し、無理やり塞がっていく。
細胞が死滅と再生を繰り返す激痛に、意識が飛びそうになる。それを奥歯が砕けるほど噛み締めて耐える。
「オラァアアアッ! よそ見してんじゃねぇぞ化け物ォ!!」
ガッドが咆哮と共に、砕け散った大盾の破片を捨て、両手で戦斧を振り下ろす。
魔王の鎧に火花が散る。だが、浅い。
魔王の裏拳がガッドを捉え、巨体がボールのように吹き飛ばされて壁に激突した。
「ガッド!!」
「クソッ……まだだ……まだ死んでねぇ……!」
ガッドは口から大量の血を吐きながらも、膝を震わせて立ち上がろうとする。その全身は既にボロボロで、立っているのが奇跡のような状態だった。
「無駄だ、人間よ。貴様らの抵抗など、象に挑む蟻に等しい」
魔王が低く嗤う。漆黒のフルプレートアーマーを纏ったその姿は、絶望的なまでに巨大で、圧倒的だった。
魔力、膂力、速度。すべての次元が違う。
アイラの放った最大火力の爆炎魔法も、魔王の指先一つで霧散させられた。
「ハァ……ハァ……。魔力が、もう底をつくわ……」
アイラが杖を支えにしながら、脂汗を流して膝をつく。
彼女の美しいエルフの耳からも、魔力酷使による出血が見える。
満身創痍。
文字通り、僕たちは限界だった。
「終わりか? 勇者よ」
魔王がゆっくりと歩を進める。その一歩ごとに、床が悲鳴を上げ、絶望の圧力が僕たちを押し潰そうとする。
勝てない。誰もがそう思うほどの戦力差。
だが、僕たちの目だけは死んでいなかった。
(まだだ……まだ、カードはある)
僕は震える手で剣を構え直した。
恐怖はある。逃げ出したい本能が警鐘を鳴らしている。
でも、背後にはセレナがいる。アイラがいる。ガッドがいる。
僕がここで崩れれば、全員死ぬ。
愛する人を守ると誓った。その誓いが、折れかけた心を強引に繋ぎ止める。
「……みんな、聞いてくれ」
僕は視線を魔王から外さずに、小声で告げた。
「あと一回だ。あと一回だけ、あいつに隙を作ってくれ」
「リオン……?」
「僕に考えがある。……命を賭ける価値のある、一発逆転の策が」
僕の言葉に、絶望に沈みかけていた仲間の目に光が戻る。
「……へっ、上等だ」
ガッドがニカっと血濡れの歯を見せて笑う。
「俺の命なんざ、いくらでも使い潰せ。お前の策なら、地獄の底だって付き合うぜ」
「アンタに賭けるわよ、リオン。私の残りの魔力、全部くれてやるわ」
アイラが杖を構え直す。
「私も……! リオンの身体が壊れないように、全力で支える!」
セレナが祈りを捧げる。
「行くぞ……!!」
僕の号令と共に、最後の突撃が始まった。
「グオオオオオッ!!」
ガッドが死兵の如く突っ込む。
防御など捨てた、完全な特攻。魔王の剣がガッドの肩を深々と斬り裂くが、彼は止まらない。
肉を斬らせて骨を断つ覚悟で、魔王の腕にしがみついた。
「捕まえたぞォ! 今だアイラ!!」
「食らいなさい! 『極光縛鎖(ライトニング・チェーン)』!!」
アイラが生命力を魔力に変換し、白く輝く鎖を生成する。
鎖は魔王の全身に巻き付き、バチバチと音を立ててその動きを拘束した。
「ぬうっ……小賢しい!」
魔王が力を込める。鎖が悲鳴を上げ、ガッドの腕の骨がミシミシと音を立てる。
拘束時間は、おそらく数秒。
だが、その数秒があれば十分だ。
僕は走った。
『隠密』発動。
気配、殺気、足音、心臓の鼓動すら完全に消し去る。
戦場の喧騒の中、僕は世界から切り離された「透明な存在」となって、魔王の懐へ潜り込んだ。
『自己再生』の出力を限界突破させる。
筋肉繊維の一本一本が切れ、即座に繋がる。その反動を利用した、人体構造を無視した超加速。
魔王がガッドを振り払い、アイラの鎖を引きちぎった瞬間。
僕は魔王の目前にいた。
「――!?」
魔王の兜の奥で、赤い瞳が見開かれる。
反応が遅れた。だが、魔王は咄嗟に左腕を盾にし、右手の剣を突き出した。
避けられない。避ければ届かない。
(肉をやる……!)
僕はあえて、左肩から魔王の剣に飛び込んだ。
ドグシャッ、と生々しい音が響く。
剣が肩を貫通し、鎖骨を砕き、背中へ突き抜ける。
脳髄を焼く激痛。
だが、その痛みこそが「拘束」だ。僕は自らの筋肉を収縮させ、刺さった剣をガッドのように離さない。
「捕まえた……!!」
僕は血の泡を吹きながら笑った。
右手には、折れた剣の柄。
だが、僕の武器は剣じゃない。この距離こそが、最大の武器だ。
「『無限収納(アイテムボックス)』――対象指定、直上5メートル!」
僕の叫びと共に、魔王の頭上に漆黒の亜空間ゲートが開く。
放出するのは、岩でも水でもない。
旅の途中で見つけた、古代遺跡の「超重量級ミスリル外壁」。
縦横10メートル、重量数千トンに及ぶ、絶対的な質量。
「なッ――!?」
魔王が上を向いた瞬間。
重力が仕事をした。
ズドオオオオオオオオオオオオオン!!
轟音などという生易しいものではない。
城全体が地震のように揺れ、床が抜け落ちるほどの衝撃。
数千トンの質量が、魔王を真上からプレスした。
鎧が飴細工のように潰れ、骨が砕ける音が重なる。
粉塵が舞い、静寂が訪れる。
「はぁ……はぁ……ッ」
僕は瓦礫の中で、左肩の剣を引き抜いた。
大量の血が噴き出すが、すぐに再生が始まる。
セレナの回復魔法が飛んできて、痛みを和らげてくれる。
「リオン!?」
「やったか……?」
ガッドとアイラが瓦礫の山を注視する。
ミスリルの塊の下から、黒い煙が漏れ出していた。
僕たちは固唾を飲んで見守る。
ミスリルが内側から弾け飛び、魔王の上半身だけが這い出てきた。
下半身は完全に潰れている。兜は割れ、素顔の一部が露わになっていた。
もはや虫の息だ。
「……見事……だ……人間……」
魔王が血を吐きながら、僕を見た。
その瞳にあったのは、敗北の悔しさではなかった。
どこか哀れむような、冷ややかな嘲笑。
「だが……喜ぶがいい……これにて……『前座』は終了だ……」
「……なんだと?」
僕は魔王に剣を向けたまま問う。
「前座だと? 何を言っている」
「クク……知らぬが幸せか……。我らなぞ……彼らにとっては……ただの……玩具……」
魔王の身体が、光の粒子となって崩れ始める。
消滅の最中、彼は天井の崩れた隙間から見える空を見上げ、嗤った。
「来るぞ……観客(やつら)が……。幕は……上がってしまった……。絶望するがいい……真の地獄は……ここからだ……」
意味深な言葉を残し、魔王ゼノスは完全に消滅した。
後に残ったのは、静けさと、朝日が差し込む崩壊した玉座の間だけ。
「……終わった……のか?」
ガッドが呆然と呟く。
数秒の沈黙の後。
アイラがへなへなと座り込み、泣き笑いのような声を上げた。
「終わった……終わったわよ! 私たち、勝ったのよ!」
「うおおおおおおっしゃああああ!!」
ガッドが雄叫びを上げ、僕に抱きついてくる。
その勢いで倒れそうになるが、痛みさえも愛おしい。
終わったんだ。
あの地獄のような戦いが。死と隣り合わせの日々が。
これでもう、誰も傷つかなくていい。世界に平和が戻ったんだ。
「リオン……!」
セレナが涙を流しながら、僕の胸に飛び込んでくる。
僕は彼女を強く抱きしめた。
生きている。彼女の心臓の音が聞こえる。温かい。柔らかい。
「怖かった……! リオンが死んじゃうかと思って……!」
「ごめん。でも、約束守ったよ。生きて帰るって」
「うん……! うん!」
僕たちは互いに肩を貸し合い、魔王城を後にした。
城の外に出ると、そこには美しい朝日が昇っていた。
魔界の淀んだ雲が晴れ、空はどこまでも青く、澄み渡っている。
世界はこんなにも美しかったのか。
涙が出るほど眩しい朝だった。
「帰ろう、みんな」
「ああ、帰って美味い酒を飲むぞ!」
「まずは温泉よ。泥だらけだもの」
「ふふ、そうだね」
僕たちは笑い合った。
魔王の最期の言葉など、負け惜しみだろうと記憶の隅に追いやった。
今はただ、この勝利の美酒に酔いしれたかった。
王都への凱旋。
それは夢のような光景だった。
転移魔法で王都へ戻った僕たちを待っていたのは、割れんばかりの歓声だった。
「勇者万歳!」「英雄たちの帰還だ!」
傷ついた僕たちを見て、人々は涙を流し、感謝の言葉を叫んだ。
色とりどりの紙吹雪が舞い、教会の鐘が高らかに鳴り響く。
誰もが笑っていた。
虐げられていた亜人も、貧しい子供も、貴族も、手を取り合って喜んでいる。
これが、僕たちが命がけで守った世界だ。
その喧騒の中心、パレードの馬車の上で、僕はセレナの手を強く握った。
彼女も強く握り返してくれた。
薬指には、あの金色の種が入った指輪が光っている。
太陽の光を受けて、種が微かに芽吹いているように見えた。
「リオン」
「なに?」
「幸せになろうね」
彼女は最高の笑顔で言った。
その笑顔は、僕が一生かけて守り抜くと誓った宝物だ。
「ああ。……僕の人生の全てを使って、君を幸せにするよ」
「約束だよ?」
「約束だ」
二人は見つめ合い、そっと唇を重ねようとした。
これ以上の幸福はない。
苦しかった過去も、辛かった旅も、全てはこの瞬間のためにあったんだ。
ハッピーエンドだ。
僕たちは、これから静かな村で暮らして、畑を作って、子供を育てて、おじいちゃんおばあちゃんになるまで笑って過ごすんだ。
そう、確信した。
その時だった。
『ピキッ』
世界に似つかわしくない、硬質な音が響いたのは。
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