第2話 金色の約束


異世界に来てからも、僕を蝕み続けているものがあった。


「――っ、はぁ、はぁ、うわあああっ!!」


自分の叫び声で目が覚める。

全身が冷たい汗で濡れていた。心臓が早鐘を打っている。

夢を見ていた。

灰色のコンクリート。クラスメイトの嘲笑。父親が振り上げた瓶。母親の冷たい目。

『お前なんかいらない』

その声がリフレインし、呼吸ができなくなる。過呼吸だ。ここはどこだ。僕はまた、あそこに引き戻されたのか。そんなの嫌だ。


「リオン! リオン、大丈夫!?」


テントの幕が開き、ランタンの光と共にセレナが飛び込んでくる。

彼女は錯乱する僕の手を掴み、強く抱きしめた。


「落ち着いて。ここはテントよ。魔物はいない。お父さんもいない。私がいるよ。」


彼女の柔らかい身体の感触。石鹸のような甘い香り。

その温もりが、僕を現実に繋ぎ止める錨(いかり)になる。


「……セレナ……?」

「そうだよ。怖い夢を見たんだね。……もう大丈夫」


彼女は僕が落ち着くまで、子供をあやすように背中をトントンと叩き続けてくれた。

隣のテントからガッドも顔を出したが、状況を察して無言で頷き、入り口で見張りをしてくれた。エリラが温かいホットミルクを無言で差し入れてくれた。


「……ごめん。情けないな、勇者なのに」

「情けなくなんてない。リオンが向こうの世界で負った傷は、そんな簡単に消えるものじゃない」


セレナは僕の汗ばんだ前髪を優しく払った。


「泣いてもいいの。叫んでもいい。そのたびに、私が何度でも抱きしめるから。……君が、過去の亡霊に連れて行かれないように」


彼女の瞳は、どんな聖女の魔法よりも僕の心を浄化してくれた。

日本にいた頃、夜は恐怖の時間だった。

でも今は、目覚めれば彼女がいる。

その安心感が、僕の魂にこびりついた「灰色」を少しずつ溶かしていった。


旅の途中、立ち寄った「湖畔の街」での出来事も忘れられない。

その日はちょうど、年に一度の収穫祭だった。

魔物討伐の依頼を終えた僕たちは、久しぶりの休息として祭りに参加することにした。


街は色とりどりのランタンで飾られ、屋台のいい匂いが充満している。

ガッドは早々に酒場へ消え、アイラは魔道具の露店巡りに行ってしまった。

残された僕とセレナは、二人きりで人混みを歩くことになった。


「わあ、綺麗……! 見てリオン、あの飾り!」

「すごいね。魚の形をしてる」


はしゃぐセリアの手には、串焼きと果実水。

普段の神官服ではなく、街で買った現地の民族衣装を着ている。動きに合わせて揺れるスカートが愛らしい。

僕たちは勇者と聖女であることを隠し、ただの若い男女として祭を楽しんだ。


「あ、輪投げがある! やってみようよ」

「僕、器用さには自信ないんだけど……」


結果は散々だった。僕は一つも入らず、逆にセレナが特大のぬいぐるみをゲットして大笑いした。

広場では吟遊詩人がリュートを弾き、人々が踊っている。

誰かが僕たちの背中を押した。


「ほら、若い衆! 踊んな!」

「え、ちょっ……」


戸惑う僕の手を、セリアが強引に引く。

ステップなんて知らない。でも、彼女に合わせて身体を揺らすだけで、心が浮き立つように軽かった。

ふと、彼女と目が合う。

ランタンの暖かな光に照らされた彼女の笑顔は、この世の何よりも眩しかった。


「……楽しいね、リオン」

「うん。……こんな時間が、ずっと続けばいいのに」


踊り疲れて、湖のほとりのベンチに座った時。

僕は『無限収納』から、内緒で買っておいた小さな花火を取り出した。

日本の花火とは違う、魔法仕掛けの玩具だ。

火をつけると、パチパチと七色の火花が散り、水面に映る。


「綺麗……」

「セレナ」

「ん?」

「ありがとう。僕を、外に連れ出してくれて」


日本にいた頃の僕は、部屋に閉じこもっていた。祭りの音なんて、遠い世界の出来事だった。

まさか自分が、こうして誰かと肩を並べて花火を見る日が来るなんて。


「僕ね、今、生きてるって感じるんだ。戦ってる時じゃなくて、こうしてセレナと笑ってる時に」


セレナは僕の肩に頭を預けてきた。

彼女の髪が頬をくすぐる。


「私もだよ。……リオン。世界が平和になったら、毎日がお祭りみたいに笑って暮らせるかな」

「暮らせるさ。僕が、ずっとリオンを笑顔にするよ」


遠くで打ち上げ花火が上がり、僕たちの影を一つに重ねた。

この温もりを守りたい。

魔王を倒す義務感ではなく、このささやかな幸せを誰にも奪わせないというエゴが、僕の戦う理由になっていた。


旅も終盤に差し掛かったある日。

僕の中で大きな心境の変化があった。


それは戦闘後の野営地でのこと。

その日の戦闘で、僕はまた無茶をした。『自己再生』があるからと、敵の毒攻撃をあえて受けて強引に突破口を開いたのだ。

治療を終えた後、セレナはいつものように怒らなかった。

ただ、悲しそうに僕を見つめて、静かに言った。


「ねえ、リオン。君は自分のことが好き?」


不意打ちの質問に、僕は言葉に詰まった。

自分のことが好きか?

ゴミと呼ばれ、いらない子だと言われて育った僕が?


「……わからない。嫌いだったよ、ずっと。弱くて、惨めで」

「私はね、リオンのことが好きよ」


セリアは僕の両手を包み込み、真っ直ぐに言った。


「ガッドも、アイラも、リオンのことが大好き。君が笑うと嬉しいし、君がいなくなったら生きていけないくらい悲しい」

「セレナ……」

「だからね、君も自分のことを好きになってあげて。『どうせ自分なんて』って思わないで。君は、私たちが大好きな『リオン』なんだから」


その言葉は、どんな回復魔法よりも深く、僕の魂の根源にある傷を癒やした。

僕は自分を大切にしていいんだ。

傷ついたら痛がっていいし、幸せになる権利があるんだ。


「……うん。努力するよ」

「ふふ、よろしい」


彼女はおどけて笑い、僕の額にキスをした。

その夜、僕は初めて「死にたくない」と強く思った。

誰かのためではなく、僕自身が、この人たちと生きる未来を見たいと願ったのだ。


そして、季節は二巡りし、僕たちはついに魔王城の目前まで到達した。

明日は決戦。

世界を覆う暗雲の下、荒野の岩陰で最後の野営を張る。


緊張感はある。けれど、不思議と悲壮感はなかった。

ガッドは「勝ったら最高級の酒を樽で買う」と豪語し、アイラは「魔王の城の書庫にある禁書が楽しみ」と笑っている。

みんな、未来の話をしている。


僕はテントを抜け出し、一人で夜風に当たっていた。

魔界の空に星はない。

けれど、僕の胸ポケットには、星よりも輝くものが入っていた。


「――リオン」


愛しい声。振り返ると、セレナが立っていた。

夜風に揺れる銀色の髪。彼女もまた、眠れずにいたのだろう。

彼女は僕の隣に座り、何も言わずに手を重ねてきた。


「明日だね」

「ああ。……終わらせよう」

「うん」


短い会話。それだけで十分だった。

僕たちはこれまでの旅で、言葉以上のものを共有してきたから。


僕は震える手で、ポケットから小さな箱を取り出した。

旅の途中、アイラに教わってこっそり錬金術で作った指輪だ。

飾り気はないけれど、真ん中には僕が『栽培』で育てた「永遠花」の種が埋め込んである。淡い金色の光を放つ、枯れない種だ。


「セレナ」

「え……?」

「この戦いが終わったら……僕と、結婚してください」


喉が渇く。魔王と対峙するより緊張した。

セレナは目を見開き、口元を両手で覆った。


「僕たちで、家を作ろう。畑を耕して、君は診療所を開いて。休みの日は祭に行って、夜は並んで本を読んで……そんな、当たり前の毎日を、君と過ごしたい」


僕の人生のすべてを賭けた願い。

セリアの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

彼女は何度も頷き、僕の胸に飛び込んできた。


「はい……! はい! 喜んで!」


彼女の身体の温もりが、僕の心臓と重なる。

指輪を彼女の薬指にはめる。サイズはぴったりだった。

指先で光る金色の種は、僕たちの未来の象徴だ。


「愛してる、リオン」

「僕もだ。愛してる、セレナ」


魔界の荒野で、僕たちは口づけを交わした。

その味は、涙の塩気と、甘い愛の味がした。

世界がどうなろうと、この温もりだけは絶対に離さない。

そう誓った。


翌朝。

巨大な魔王城の門の前に、僕たちは立っていた。


「行くぞ、野郎ども! 帰りの祝杯の準備はいいか!」

ガッドが斧を構えて吠える。

「ええ、予約済みよ。さっさと片付けましょう」

アイラが杖を構えて不敵に笑う。

「光のご加護を。……行きましょう、リオン」


セレナが僕を見て、優しく微笑む。

「リオン」と呼ばれたその響きが、僕に無限の力を与えてくれた。

僕は剣を抜く。


「行くぞ!!」


重厚な扉が開く。

その先に待つのが、光り輝くハッピーエンドだと信じて。

この世界の「真実」など、何一つ知らぬまま。

僕たちは希望という名の落とし穴へ向かって、全速力で駆け出した。

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