世界は僕に優しくない。魔王を倒した対価がこれですか?

ころん

第1話 灰色の記憶

「今この瞬間も全てを鮮明に憶えている」


雨の匂いが嫌いだった。

それは、湿ったアスファルトと、錆びた鉄柵、そして僕の頬にこびりついた泥と血の臭いを思い出させるからだ。


日本の、どこにでもある普通の街。灰色の空の下、僕は校舎裏の冷たい地面に頬を押し付けていた。

腹部には、重く鈍い痛みが居座っている。さっき蹴り上げられた箇所だ。

肺から無理やり空気を押し出され、「ヒュッ、ヒュッ」という壊れた笛のような音が、自分の喉から漏れているのが聞こえる。


「――おい、立てよゴミ」


頭上から降ってくる嘲笑。視界の端で、クラスメイトたちが歪んだ笑顔を浮かべていた。

彼らにとって、僕は人間ではない。ストレスを解消するためのサンドバッグであり、少し強く押せば悲鳴という反応を返す玩具だった。


「なんだよ、もう終わりか? 反応ねえな」

「つまんね。行こうぜ。手ぇ汚れたわ」


彼らは唾を吐き捨て、談笑しながら去っていく。

残されたのは、泥水に濡れた制服と、ボロ雑巾のように丸まった僕だけ。

痛みは、もう麻痺していた。殴られる肉体的な痛みよりも、心を削られる音の方が鮮明だった。自分の魂が、カンナで削られるように薄くなっていく感覚。


家に帰っても、地獄は続く。

玄関のドアを開けた瞬間、鼻を突く安酒とタバコの腐った臭い。

「何時だと思ってるんだ! 飯はどうした!」

父親の怒号と共に飛んでくる灰皿。ガラスの割れる音。母親のヒステリックな金切り声。

「あんたなんか生まなければよかった!」


その言葉は、暴力よりも深く僕の胸に突き刺さる。

僕は息を殺し、足音を消すように――まるでこの世界に存在しないかのように――自分の部屋へと逃げ込む。

「リオン」という名前すら、呪いのように感じた。


翌日の放課後。

僕は屋上のフェンスの外側に立っていた。

雨が降っていた。灰色の空から、灰色の雨が僕を濡らしていく。全身が冷え切っていたが、不思議と震えはなかった。


(消えたい)


「死にたい」という積極的な感情ですらなく、ただフッと蝋燭の火が消えるように、最初からいなかったことになりたい。

眼下には、濡れて黒く光るコンクリートの地面。あそこに落ちれば、全て終わる。


「……さようなら」


誰に向けたわけでもない独り言と共に、僕はフェンスを掴んでいた指を離した。

落下する浮遊感。

走馬灯なんて見えなかった。ただ、やっと眠れるという深い安堵だけが、僕の意識を塗りつぶそうとして――


その時だ。

世界が、白く弾けたのは。


コンクリートに叩きつけられる、肉が潰れる音はしなかった。

代わりに僕を包んだのは、柔らかな光の粒子と、嗅いだことのない甘い香木の匂いだった。


「――成功じゃ! 召喚成功じゃ!」


目を開けると、そこは荘厳な石造りの大広間だった。

ステンドグラスから差し込む極彩色の光。正面の玉座には威厳ある老人が座り、周囲には煌びやかな鎧を纏った騎士たちが整列している。

いわゆる、異世界召喚。

僕は呆然としながら、宮廷魔導師による「ステータス鑑定」を受けることになった。


「こ、これは……」


水晶玉を覗き込んだ魔導師が、困惑した声を上げる。


「勇者殿のスキル構成は……少々、特殊ですな」

「特殊?」

「はい。攻撃魔法や聖剣の適性は見当たりませぬ。代わりに発現しているのは、以下の4つ」


魔導師が読み上げる。


『無限収納(アイテムボックス)』

『自己再生(オートリジェネ)』

『栽培(カルティベート)』

『隠密(ステルス)』


広間がざわめいた。

「地味だな」「栽培だと? 農夫か?」「隠密なんて盗賊の技じゃないか」

そんな落胆の声が聞こえてくる。

華々しい勇者のイメージとは程遠い、雑用係のようなスキルの羅列。

僕は唇を噛んだ。異世界に来てまで、僕は期待外れの「ゴミ」なのか。


「……ですが、魔力量は規格外です! 成長限界も見えません!」


魔導師のフォローにより、なんとか「勇者」としての体裁は保たれた。

だが、僕の心は冷めていた。

どうせ道具だ。役に立たなければ捨てられる。

日本にいた時と変わらない。


そう思っていた。

あの人たちと、旅に出るまでは。



僕のパーティメンバーは、変わり者ばかりだった。

豪快な斧使いの大男、ガッド。

知識欲の塊であるエルフの魔導師、アイラ。

そして、太陽のような笑顔を持つ聖女、セレナ。


最初は、お荷物にならないか不安だった。

けれど、僕の「地味なスキル」は、彼らとの旅の中で予想もしない輝きを放ち始めた。


ある日、食料が尽きかけた砂漠の真ん中でのことだ。

保存食も底をつき、みんなが疲労困憊していた時、僕は恐る恐る提案した。


「あの……僕の『栽培』スキル、試してみてもいいかな」


乾いた砂の上に手をかざし、魔力を注ぐ。

本来なら数ヶ月かかる植物の成長を、数秒に圧縮するスキル。

ボンッ、という音と共に、砂漠の真ん中に瑞々しいトマトやキュウリ、そして疲労回復の薬草が一斉に実を結んだ。


「うおおお! マジかよリオン!」


ガッドがトマトをもぎ取り、砂漠の太陽の下でかぶりつく。

ブシャッと溢れる果汁。


「うめぇ! 喉が生き返るぞ! お前すげぇな、勇者っつーより、魔法使いみたいだ!」

「成分分析完了。……驚いたわね。栄養価も満点よ。これならポーション代も浮くわ」

アイラが眼鏡を押し上げながら、嬉しそうに薬草を採取する。


そしてセレナが、花のような笑顔で僕の手を握った。


「すごいね、リオン。君の手は、破壊する手じゃなくて、命を育む手なんだね」


その言葉に、胸が熱くなった。

誰かに褒められたことなんてなかった。僕のスキルが、誰かを笑顔にできるなんて知らなかった。



戦闘においても、僕のスキルは「守る」ために進化した。


僕には派手な攻撃力はない。だからこそ、誰よりも早く危険を察知する役目を引き受けた。

『隠密』を発動させ、気配を完全に遮断する。

魔物の群れのど真ん中を、風のようにすり抜けて偵察を行うのだ。


「前方300メートル、オークの伏兵あり。右の岩陰に弓兵がいる」

「了解。リオンのおかげで不意打ちを食らわずに済むわ」


アイラが僕の情報を元に、先制攻撃魔法を叩き込む。

僕はただ隠れるだけじゃない。戦闘が始まれば、『無限収納』から大量の矢や予備の武器を取り出し、前線のガッドに補給する。

「サンキュー相棒! お前がいると弾切れの心配がなくて助かるぜ!」


そして、何よりも仲間を驚かせたのは『自己再生』の使い方だった。


ある激戦の日。

強力な魔獣キメラの爪が、後衛のセレナを襲った。ガッドは間に合わない。エリラの障壁も割れた。

僕は迷わず、セレナの前に飛び出した。


ドスッ、という鈍い音。

鋭い爪が僕の腹を貫通し、背中まで突き抜ける。


「リオン!!」

セレナの悲鳴。

激痛が走る。日本で殴られた痛みとは比べ物にならない、死の感触。

だが、僕は倒れない。

即座に『自己再生』が発動する。傷口から白煙が上がり、肉が沸騰するように盛り上がり、数秒で傷を塞いでいく。


「……大丈夫。かすり傷だ」

僕は脂汗を流しながら笑ってみせた。

キメラが怯んだ隙に、激昂したガッドが斧を叩き込み、魔獣を粉砕した。


戦闘後、セレナは泣きながら僕に平手打ちをした。


「バカ! ……っ、大馬鹿!」

「ごめん、でもセレナが怪我するより……」

「再生するからって、痛くないわけじゃないでしょ!? 私を守るために、自分を粗末にしないでよ!」


彼女は泣きじゃくりながら、もう塞がっている僕の腹を、何度も治癒魔法で撫でてくれた。

「君が傷つくと、私も痛いの……」

その涙を見た時、胸の奥がひどく痛んだ。

嬉しいのか、怖いのか、自分でも分からなかった。

多分戸惑っていたんだと思う。

僕が傷つけば、泣いてくれる人がいる。

その事実に動揺してしまった。

その日はセレナにたくさん謝った。


それでも僕は誓った。

この『自己再生』がある限り、何度身体が砕けようとも、彼女たちの盾になろうと。

『栽培』でみんなの腹を満たし、『隠密』で危険から遠ざけ、『無限収納』で重荷を背負い、『自己再生』で痛みを肩代わりする。


いびつな4つのスキル。

でも、それがピタリとハマった時、僕たちは「家族」になった。


夜、焚き火を囲んでガッドが作ったシチューを食べる。

僕が育てた野菜が入っている。

エリラが魔法の講義をし、セリアが微笑んで見守る。

そんな些細な時間が、何よりも愛おしかった。


かつて灰色だった僕の記憶は、鮮やかな色彩で塗り替えられていった。

空は抜けるように青く、風は優しく、人の体温はこんなにも温かい。

この世界に来てよかった。

全ての苦しみは、この仲間に出会うためにあったんだ。


心からそう思えた。

僕はこの幸せを守り抜くためなら、悪魔にだってなれる気がした。

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