第3話 清算
二〇二四年九月末。アパートの解約手続きのため、私は再びその街へ降り立った。
管理会社へ鍵を戻す前に、部屋を空にしなければならない。息子が「粗大ゴミ」と呼び、死の直前までその処分費用を案じていた冷蔵庫や洗濯機、それから彼が丁寧に分類した段ボールの山。それらをすべて運び出し、無へと還元するために、私は不用品回収業者を呼んでいた。
業者の男たちは二人組だった。私と同じような濃紺の作業服を着て、手慣れた手つきで部屋の四隅に視線を走らせる。
「これだけですね」
リーダー格の男が、使い込まれた端末に手早く数字を打ち込んでいく。提示された見積額は、人件費と家電のリサイクル料金を合わせて、八万八千円だった。
八万八千円。私の通帳から毎月引き落とされる学費ローンの返済額、三万三千円の二カ月分と、その端数。息子という個人の二十四年分を清算するにはあまりに歪な、しかし動かしようのない実務上の正解だった。私は提示された画面に、迷うことなく署名した。指先に震えはない。自販機の在庫管理表に印をつけるときと同じ、乾燥した皮膚の感触があるだけだった。
「じゃあ、始めます」
男たちの低い声とともに、沈黙していた部屋に騒音が流れ込む。
彼らは、息子が封をせずに口を交互に折り込んでいた段ボールを、中身を確認することもなく次々と運び出していく。あんなに執拗に、残される私への配慮として整えられた「分類」の体系が、他人の手によってただの「荷量」として積み上げられていく。
冷蔵庫が床を擦り、プラスチックの筐体が軋む嫌な音が響く。洗濯機が持ち上げられた後には、湿った埃の輪郭と、逃げ場を失った黴の臭いだけが黒ずんで残されていた。そこは、機械が置かれていた数年間、一度も光が当たらなかった場所だ。息子の生活の底に溜まっていた澱みを、私は今、剥き出しの床の上に目撃していた。
私は、壁に背を預けてその光景を眺めていた。
悲しみがこみ上げてくるのを待っていた。親より先に逝った息子の、その生活の残骸が物理的に消滅していく光景を前にすれば、せめて一筋の涙くらいは流れるのではないか。しかし、私の内側にあったのは、驚くほど平坦な、ある種の充足感に近い「清算」の意識だけだった。
業者の手際が良ければ良いほど、息子の存在は、数値化された費用と、トラックの荷台の容積へと置換されていく。八万八千円。その対価として、この部屋から息子の体温が剥がし取られ、ただの四角い空洞へと戻っていく。それは、一日に何百本もの飲料を自販機に充填し、空の容器を回収していく私の労働の延長線上にある作業だった。
作業の中盤、一人の男が段ボールの一つを床に落とした。
交互に折り込まれていた蓋が開き、中から数冊の大学時代の教科書と、くたびれたフリースがこぼれ出した。男は無造作にそれを拾い上げ、再び箱に押し込んだ。その瞬間、私は息子の「有能さ」が踏みにじられたような、奇妙な感覚に襲われた。彼は、これらが私に苦痛を与えないよう、完璧な規律をもって箱に収めたのだ。その規律を、他人の粗雑な手が壊していく。だが、それさえも「清算」という手続きの一部に過ぎない。
「奥さん、これはどうします?」
作業を終えた男の一人が、軍手を脱ぎながら、机の引き出しの奥に残されていた一本のボールペンを指さした。どこにでもある安価なプラスチックの軸。インクは半分ほど残っている。
「捨ててください」
私は短く答えた。
息子が遺した段ボールの折り目や、ゴミ袋の重なり。あそこまで完璧に後始末を完遂しようとした彼に対して、私ができる唯一の礼儀は、その清算を不純物なく完了させることだ。形見などという情緒的な残滓は、彼の望んだ事務的な死を汚すものでしかない。
男たちが去り、アパートの前に停まっていたトラックのエンジン音が遠ざかっていく。
再び訪れた静寂の中で、私はガランとしたフローリングの床を見下ろした。そこには、あの半透明のゴミ袋の跡さえ残っていなかった。
彼はあの日、自分が死ぬ場所を汚さないために、この床に何枚ものシートを敷き詰めた。その理性が、その恐ろしいほどの実務能力が、今や空っぽになったこの空間のどこにも刻まれていない。ただ、掃除しきれなかった隅っこの埃だけが、白日の下に晒されている。
私は窓を開け、こもった黴の臭いを外へ逃がした。
眼下には、彼が毎日通っていた物流倉庫へと続く国道が見える。数え切れないほどのトラックが、排気ガスを撒き散らしながら規則正しく行き交っている。
八万八千円を支払って手に入れたのは、この何もない空間と、明日から再び始まる私自身の労働だった。
来月も、再来月も、私の通帳からは三万三千円という負債が、まるで心臓の鼓動のように正確に刻まれ、消えていく。
彼がもうこの世にいないことを、私は空っぽの部屋で確信したのではない。
引き落とされ続ける数字の規則性と、これから向かう物流倉庫の、誰が欠けても回り続ける無慈悲な循環の中に、私は彼の完全な不在を予感していた。
私はカバンから返却用の鍵を取り出し、冷たくなった金属の感触を掌で握りしめた。手続きはまだ、終わっていない
二〇二四年九月息子は死にました @Eriott
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