第8話
夜が深まるほどに、胸の奥の蠢きは鮮明さを増していた。
呼吸の微細なリズム、手足の先端の感覚、意識の端での微かな動き――すべてが滑るように支配され、恒一の身体は自分だけのものではなくなっていた。
胸の奥の存在は、微細なズレを学習し、過去の歴史の知識を携え、ついに完全な「融合」に達しようとしていたのだ。
恒一は意識の境界が曖昧になるのを感じた。
胸の奥の存在が、手足の動作や呼吸のリズムだけでなく、思考や感情の流れまで滑らかに取り込み、制御する。自分が何を考え、何を感じているのか……その境界はもはや曖昧で、胸の奥の蠢きと恒一自身の意識は、静かに一体化していった。
夢と現実、記憶と身体感覚の差異も消え、すべてが滑る存在の中で混ざり合う。
日常のあらゆる行動は、意識の意図ではなく、胸の奥の存在によって統制される。
手を動かす、足を踏み出す、言葉を口にする……微細な隙間に侵入した存在が、滑るようにすべての行動を書き換えた。
恒一の意識は残っているが、それはまるで鏡に映る影のように、胸の奥の怪異の動きを追うだけの存在となった。
記憶の融合も進んでいた。
過去の自分の経験、日常の些細な記憶、他者との関わりの記憶、それらすべてが胸の奥の存在に吸収され、滑らかに再構築される。
恒一は自分の記憶にさえ、完全には触れられなくなった。
胸の奥の存在が、過去の歴史を携えた学習済みの知識を駆使し、恒一の記憶を完璧に書き換え、日常に溶け込ませていたのだ。
夜明けが近づき、胸の奥の存在は微かに蠢きながら完全に恒一の身体と融合した。
意識は残っているものの、もはや自分をコントロールできない。鏡の中の自分は依然として人間だが、内部で滑る存在が完全に主導権を握っていた。
恒一は悟った。自分の意識、感覚、記憶、身体、すべてが、この妖怪のような存在に委ねられた。抵抗はもはや無意味であり、逃れられる道は存在しない。
胸の奥で蠢く存在の滑らかな動きが、恒一の全身に行き渡った。
日常、身体、意識、記憶――すべてが融合し、もはや恒一は、自分という個ではなく、歴史を滑る怪異の一部となったのだった。
恒一の意識は残っているものの、胸の奥で蠢く存在が全てを支配していた。
呼吸、手足の動作、思考、感覚、記憶、かつて自分のものだった全てが、滑る存在の器となっている。胸の奥の蠢きはもはや個人の枠を超え、恒一の身体を通じて世界に触れる準備を整えていた。
その正体は、単なる身体侵食の妖怪ではない。
古代から、人間の隙間を滑り、器を学び、失敗した器を捨て、成功例を積み重ねてきた、累積的な存在である。
農村で病に倒れた人、戦場で命を落とした兵士、都市で孤独に死んだ者――すべての経験は怪異に吸収され、学習の糧となった。失敗した器は忘れ去られるが、知識は蓄積され、次の侵食はさらに精巧に、滑らかに行われる。
胸の奥で蠢く存在は、人類の歴史を携えた学習済みの怪異であり、恒一の身体を通して完成体へと至った。
意識の残滓は、まるで鏡の影のように存在するだけで、もはや自由はない。日常の些細な動作、感覚の微細なずれ、記憶の歪み、それらすべてが、滑る存在によって統合され、完璧に制御されている。
胸の奥の蠢きは、これまでの失敗例と学習の蓄積を駆使し、恒一を最も完成された器に作り上げたのだ。
妖怪のように滑る存在は、世界のあらゆる場所に潜み、器を選び、歴史の上で完成体を作る。
恒一の胸の奥に宿るそれは、ついにその完成形を得た。意識は残るものの、主体は怪異であり、恒一自身は内部に漂うだけの「観察者」と化していた。
鏡に映る自分の瞳には、微かに人間らしい光が残る。
しかし胸の奥で滑る存在の意志は、完全に世界を透過し、日常と記憶を自在に操作していた。
抵抗も、逃避も、救済も存在しないことを恒一は理解する。
胸の奥の怪異は、彼の思考、感覚、意識すべてを学習し、支配し、融合した。身体、日常、記憶――あらゆる隙間を滑る存在の学習場として、恒一は永遠に生き続ける。
個としての自分は、もはや存在しない。歴史を滑る怪異の完成体の中で、器としての意識が、静かに、しかし確実に消えていく。
朝の光が部屋に差し込む。
鏡に映る恒一の姿は、変わらぬ人間の顔をしている。
しかし胸の奥で蠢くものは、人類の歴史を携え、器を完成させた。
恒一の存在は完全に内部に吸収され、救いのない永遠の静寂が広がる。
胸の奥で滑る存在は、今日も静かに、微細な呼吸のリズムに合わせて、世界を観察し、学習し続ける。
もはや恒一の意識の残滓さえ、滑る存在に溶け込み、誰にも救えぬ完成体となったのだった。
呼吸する空白 Towa @To_wa0103
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