第6話

 恒一は、夜の暗闇の中で、胸の奥の蠢きに手を置いた。指先に伝わる冷たさ、背中の奥で滑るような動き、微かにずれる呼吸のリズム……それらは、単なる身体の異常ではなかった。

 自分の意思をかすめる微細な力。胸の奥で滑る存在が、まるで自分の思考や行動を学習し、操ろうとしていることを、初めて理性が認めた瞬間だった。



 恒一は思い出す。

 子供の頃、手足が思うように動かず、もどかしさに泣いた夜。あの感覚の底に、同じような存在が潜んでいたのかもしれない。

 大人になっても、手先や呼吸の僅かなずれ、記憶の微妙な歪み、日常の小さな違和感。すべてはこの存在の仕業だったのだ。

 胸の奥で蠢く何かが、自分の身体の隙間に滑り込み、意識と動作を少しずつ書き換えていく。その存在を認識した瞬間、恐怖が血の中を凍らせた。



 「なぜ…今まで気づかなかったんだ…」恒一の声は震えた。

 言葉にしても、身体に宿る存在が微かに震え、声帯の振動まで操る。思考さえも滑るように変化する感覚。

 胸の奥の蠢きは、自己を取り巻く世界のすべてを模倣し、学習し、侵食する。もはや恒一の身体は自分だけのものではなく、微細な隙間を滑る存在の器となっていた。


 鏡に映る自分の瞳を覗き込むと、微かに別の視線が宿るように見えた。

 心臓が跳ねるが、視覚を超えて、胸の奥の存在を感じる。

 呼吸、手足の動き、思考のすべてが、かすかにずれ、滑り、侵食されている。

 身体を構成するすべての隙間に、この存在は潜み、静かに、しかし確実に支配を広げていたのだ。


 恐怖というより、深い絶望が恒一を覆う。

 逃げることも、抵抗することもできない。胸の奥の存在は、身体だけでなく意識までも侵食する。記憶、日常、感覚、思考、すべてが滑り、置き換えられる。

 恒一は悟ってしまった。これは錯覚でも病でもない。

 胸の奥で蠢くものは、自分を超えた存在であり、身体の隙間を滑る妖怪のように、永遠に、静かに侵食を続けるのだ。



 そして恒一の意識はわずかに後退し、胸の奥で蠢く存在の影に押しやられた。

 恐怖よりも強い冷静さ……逃れられない未来を悟った者だけが知る静けさが、彼の全身を包み込んだ。


 もはや自分は、胸の奥の存在にとっての器の一つに過ぎない。

 それが、彼が初めて怪異の正体を理解した瞬間だった。

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