第4話
朝の光が差し込むリビングで、恒一はふと食卓の上のコーヒーカップに手を伸ばした。
手首がわずかにずれ、指先が滑るように動いた瞬間、カップは僅かに傾き、飲み物が音もなくこぼれた。
妻が振り返る。「どうしたの?」問いかける声は温かいはずだったが、恒一にはどこか遠く、無力感を伴った響きに感じられた。身体の内部で蠢く存在が、微細な動作のすべてに介入し、恒一の意図を滑らかに書き換えていたからだ。
自分が行動を決めたはずなのに、すべてが妖怪に操られ、日常がずれ続ける。
仕事場でも状況は変わらなかった。
会議で発言しようとしても、言葉は滑り、予定していた表現とは少しずつ違う言葉が口をつく。
資料の数字や文字も、頭の中で記憶していた順序とは微妙にずれ、指先で操作する書類がまるで意図に従わない。周囲はそれを気にも留めず、恒一の心に孤独感だけを積み重ねる。
自分の意識はまだここにあると信じたいが、胸の奥で蠢く存在が、すべての動作と反応を自分の知らない滑らかさで書き換えていく。
帰宅後、階段を上るときの感覚も、以前とは違った。
足の置き方や踏み込みの感触、膝の曲がる角度までが微かに変わり、身体が自分の意志に応えてくれない。ドアを開ける手が、わずかにずれ、鍵穴に触れる瞬間の感覚が違う。家の空気はいつもと同じだが、恒一の身体には妖怪の手が滑り込んでいる。
意図を裏切る微細なズレの連続が、日常そのものを崩していく。
夜、ベッドに横たわっても逃れられない。胸の奥で滑る存在は、眠りにつこうとする意識さえも侵食する。
夢の中での手足の動きや視覚は微かに改変され、記憶に残る朝の感覚はわずかに歪む。
家族の声、隣人の笑い、道を歩く人々の足音、すべてが既知のものではなく、恒一の感覚が滑るように書き換えられている。身体の行動、記憶、感覚のすべてが、内部で蠢く存在の支配下にある。
恒一は悟った。
もはや自分の身体は、自分だけのものではない。
日常を形作る微細な動作、思考、感情――すべてが、滑る妖怪のような存在によって侵食され、書き換えられているのだ。
逃げることも、抗うこともできない。日常の崩壊は、身体侵食の進行と同時に、意識の孤立をもたらしていた。
鏡に映る自分は、いつもと同じ顔をしている。しかしその内部では、妖怪が滑り、恒一の意識を覆い尽くしているのだった。
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