第3話
恒一は夜、静かな部屋で過去の写真や日記を見返した。
子供の頃の自分、友人と笑う姿、家族と過ごした休日の光景――どれも見覚えのあるもののはずだった。
しかしページをめくるたび、胸の奥で微かに蠢く存在が違和感を差し込む。
記憶が、ほんのわずかに歪むのを感じたのだ。
文字の形が微妙に変わっている。写真の手の位置や笑顔の角度が、頭の中で覚えていたものと少しずれる。思い出すたびに、記憶が滑るように書き換えられ、恒一自身の感覚から逃げるように変化していく。
思考もまた、同じように侵されていた。
日常で交わした会話の言葉や、友人との約束、出来事の順序が、頭の中で勝手に入れ替わる。過去の自分の意識が消え、胸の奥の存在が少しずつ代わりに「操作している」感覚があった。
滑るように、静かに、しかし確実に。
何度も思い出して確かめても、記憶は完全には自分のものではなくなっていた。
恒一は、自分の意識が徐々に身体の外側に押し出されているように感じた。
手足を動かす感覚はまだ自分のもののように思えるが、胸の奥の蠢きは、かつての自分の感覚を少しずつ置き換えていた。
笑った記憶、泣いた記憶、怒った記憶――すべてが微かに滑り、妖怪のような存在に適応されていく。
意識の隙間に侵入された記憶は、もはや「自分が経験した」と確信できない。
深夜、眠りにつこうと布団に入ると、恒一は恐怖よりも、むしろ不可避の冷静さを覚えた。
胸の奥で滑る存在は、夢の中の身体の動きまで学習していた。手足が勝手に動き、夢の中での行動も微かに書き換えられる。
記憶と現実の境界が溶ける感覚、それが恒一の日常になりつつあった。
鏡に映る自分は変わらない。だが胸の奥の蠢きは、過去も未来も、自分の意識すらも滑らかに書き換えているのだ。
恒一は悟った。
この異変は、もはや身体の問題ではない。
意識、記憶、過去、日常。全てが滑る妖怪の支配下にある。
逃げることはできず、抗うこともできない。胸の奥の存在に委ねるしかないのだ。記憶の歪みは、身体侵食の次の段階として、静かに、しかし着実に進行していた。
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