第2話

 朝の光が窓から差し込むたび、恒一は胸の奥で微かに蠢く存在を意識した。

 前日までは気にならなかった、指先や手首、肩の微妙な重さ。呼吸のリズムはわずかにずれ、動作のひとつひとつに違和感が付きまとう。

 コーヒーカップを持つ手が、一瞬、手首の下で勝手にひねられる感覚。椅子に腰かけると、背中の奥が滑るように動き、体重のかかり方が微妙に変わる。


 恒一は目を閉じ、ゆっくり息を吸った。


 しかし息を吐くたび、胸の奥の存在は反応し、指先から肩甲骨の奥まで、滑らかに蠢いた。



 仕事中も違和感は消えない。会議でペンを走らせると、文字の線はわずかに曲がる。思考の流れが遅れる瞬間がある。頭の中で考えたはずの言葉は、口に出す前に別の形にすり替わるように感じられる。仲間の視線を感じ、返答を考える瞬間、胸の奥が冷たく、滑る何かで覆われる。

 これは錯覚ではない。

 自分の身体を内側から操る別の意思――妖怪のように滑る存在が、微細に、しかし確実に浸透しているのだ。



 帰宅しても安らぎはない。階段を上るとき、足の感覚がわずかに遅れ、階段板の距離感が狂う。ドアノブを握る手が、ほんの一瞬、思うように動かない。

 恒一は気づいた。身体のあらゆる動作の「隙間」に、滑る存在が入り込んでいる。

 寝室の鏡に映る自分は何も変わらない。ただ微かな手の震え、肩の傾き、呼吸のずれ。それだけが、内部侵食の痕跡を語っていた。



 夜になると、存在はさらに精密に動く。

 恒一が眠りにつこうとする瞬間、胸の奥の感覚が鋭くなる。夢の中で手足が勝手に動き、思考が滑り、言葉が他者に届かない。意識の端で、存在は学習するように蠢き、微かな違和感を残しながら、身体を支配していく。

 恒一は知っていた。この侵食は、単なる異常ではない。

 逃げられず、抗えず、ただ身体の内部で妖怪のように滑る存在に委ねられるしかないのだ。

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