-第5章-欠けたまま、戻る。
_____火野火憐(かの かれん)
朝になっても、私は制服のままだった。
シャワーの音が、浴室の奥でぱらぱらと弾けている。
まるで拍手みたいに。
——それ以上、踏み込むな。
そう言われている気がして、蛇口を捻れずにいた。
そのリズムに、ふいに重なるものがあった。
「姉ちゃん」
呼ばれた気がして、肩が跳ねる。
振り向いても、当然そこには誰もいない。
昨日の夜も、今日の朝も、
私は名前を呼ばれていない。
——もう、いないのだから。
それでも、
いないという事実より先に、
返事をしなかった自分を思い出してしまう。
あの夜も、私は振り返らなかった。
シャワーの音は、止まらない。
止めようと思えば、いつでも止められる。
蛇口をひねるだけだ。
それなのに、私は腕を下ろしたまま、動かなかった。
水音が、壁に当たって弾ける。
ぱら、ぱら、ぱら、と。
それはまるで、
誰かが拍手をしているみたいだった。
——よくやったね。
——ちゃんと、耐えてるよ。
そんな言葉が、音の隙間に混じる。
「……うるさい」
声に出したつもりだったが、
シャワーは何も聞かなかった。
弟がいなくなった夜も、
こんな音がしていた気がする。
違う。
正確には、音を聞こうとしたのだ。
怒鳴る声も、割れるガラスの音も、
自分の心臓の音も、
全部この水音で塗り潰せると思った。
でも、塗り潰せなかった。
水は、流すだけだ。
消してはくれない。
——ねえ。
不意に、
自分の声じゃない呼びかけが落ちてくる。
——まだ、怒ってないの?
その問いに、
胸の奥で何かが小さく震えた。
怒っている。
怒っているはずだ。
誰に?
能力者を資産だと言った大人たち。
弟を「回収対象」と呼んだ声。
何もできなかった自分。
それなのに。
——でもさ。
声は続く。
やけに、親しげに。
——あの子は、助けられてたよね。
脳裏に浮かぶのは、
夜の路地で立ち尽くす水卜葵と、
その前に立った神木ハルの背中。
——ちゃんと、手を伸ばしてもらえてた。
心臓が、一拍遅れる。
——あなたは?
その瞬間、
シャワーの音が、急に遠くなった。
怒りが、形を変える。
誰かを責める熱じゃない。
誰かに向ける理由もない。
ただ、
取り残されたという感覚だけが、
胸の奥で黒く、静かに広がっていく。
「……違う」
何が違うのか、
自分でも分からないまま呟いた。
その呟きに応えるように、
シャワーの音が、ほんの一瞬だけ強くなる。
——そう。
——違わないよ。
それは、
肯定だった。
______
最初に思ったのは、
――無事でよかった、のはずだった。
夜の路地に、ふっと二人が現れた。
ハルと、水卜葵。
消える前と同じ制服で、同じ顔で、同じ立ち位置で。
なのに。
「……おかえり」
そう言った自分の声が、やけに浮いて聞こえた。
二人はちゃんとこちらを見ている。
頷きもするし、名前を呼べば返事もする。
怪我もない。震えてもいない。
でも――
火憐は、理由のわからない寒気を覚えた。
まるで、
“長い時間、心配されていた”という前提が、二人の中に存在していないみたいだった。
「……心配したんだからね」
少し強めに言うと、
ハルは一瞬だけ言葉に詰まり、それから曖昧に笑った。
「あ、ああ……ごめん」
その謝罪は、
悪意がない代わりに、重さもなかった。
葵も同じだった。
火憐と目が合って、気まずそうに視線を逸らす。
でもその“気まずさ”は、怒らせた相手へのものじゃない。
状況がわからない人間の、戸惑いだった。
――ねえ。
あんたたち、自分が何を失いかけたか、わかってる?
喉まで出かかった言葉を、火憐は飲み込んだ。
代わりに、胸の奥で何かがじわりと熱を持つ。
安心じゃない。
怒りでもない。
ただ、
取り残された側だけが知っている時間が、
確かにそこにあった。
その夜、火憐ははっきり理解した。
――この二人は、戻ってきた。
けれど、
全部は戻ってきていない。
______
翌朝、目は普通に覚めた。
アラームが鳴って、
止めて、
天井を見て、
息を吸う。
全部、昨日までと同じ。
シャワーはもう止まっている。
浴室には、何も残っていなかった。
床も、鏡も、
私の中も。
「……行かなきゃ」
独り言は、ちゃんと声になった。
それが少しだけ、安心だった。
制服に袖を通す。
ボタンを留める。
髪を整える。
鏡の中の私は、
何も失っていない顔をしていた。
学校までの道も、
変わらない。
サイレンは鳴らない。
夜じゃないから。
昼の世界は、相変わらず安全で、
それがひどく、腹立たしかった。
教室の扉を開けると、
いつものざわめき。
「おはよー」
「昨日の課題さ」
「聞いた? あの噂」
誰も、私を見ない。
正確には、
特別に見ない。
それが普通だ。
席に座ると、
前の席で水卜葵が振り返った。
「火憐、おはよ」
その声は、柔らかい。
昨日も、きっと同じ声だった。
「……おはよ」
返事は、少しだけ遅れた。
でも、葵は気にしない。
「今日さ、放課後どうする?」
何気ない問い。
逃げ道も、断り文句もある問い。
私は一瞬、
神木ハルの席を見た。
まだ来ていない。
——助ける人。
そんな言葉が、
頭に浮かんで、
すぐ消える。
「……喫茶、行く」
それだけ言った。
葵は少しだけ、目を細めて笑った。
「そっか。じゃあ一緒だね」
一緒。
その言葉に、
胸の奥で何かが、かすかに軋む。
黒くはない。
まだ。
ただ、
色が濁っただけ。
チャイムが鳴る。
先生が来る。
授業が始まる。
ノートを取る手は、止まらない。
文字も、数式も、正しい。
正しいのに。
板書の隙間に、
ふと、昨夜の水音が混じる。
ぱら、ぱら、ぱら。
耳を澄ますほどじゃない。
無視できる程度。
でも、
確かに、そこにある。
そのとき、
教室の扉が開いた。
「……すみません、遅れました」
神木ハルの声。
全員が一瞬、そちらを見る。
そしてすぐ、興味を失う。
普通だ。
彼が席に着く。
椅子が鳴る。
それだけ。
——ねえ。
また、あの声。
——本当に、何もなかった?
私は視線を前に固定したまま、
答えなかった。
答えなかったこと自体が、
答えだった。
_________
――記録は、まだ名前を持たない
その日、
何かが欠けたまま、世界は昼を迎えた。
欠けた、という表現は正しくない。
正しくは――
最初から、そこには無かったことになっている。
人は、失ったものを探す。
だが、失ったという事実そのものが消えた場合、
人は何を探すのだろうか。
記録は存在しない。
写真も、文章も、声も。
それでも、
ひとりだけ、
胸の奥に引っかかる“感触”を手放せない者がいる。
名を呼ぼうとして、呼べない。
思い出そうとして、形にならない。
それは欠落ではない。
調整だ。
世界は常に、
自分を保つために必要な嘘を選ぶ。
だから今日も、
喫茶店には客が来る。
学校では授業が行われる。
夕方になれば、サイレンが鳴る。
何も、変わっていない。
——変わったのは、
それを「おかしい」と思える者が、
ほとんど残っていないという事実だけだ。
観測は、まだ続いている。
これは終わりではない。
ただの、
最初の色落ちに過ぎない。
_______
2人は、言葉少なに歩き始めた。
周囲の景色はいつも通りで、
何も壊れていない。
人もいる。
世界は、正常に回っている。
——それでも。
何かが、確実に抜け落ちている。
喫茶アオハラに着いたとき、
その感覚はさらに強くなった。
店内は静かで、
カップの音や、低い会話が耳に馴染む。
いつもの場所。
いつものはずの光景。
なのに、
どこか席が一つ足りない気がした。
「……前も、ここで」
ハルは言いかけて、止まる。
何を言おうとしていたのか、自分でも分からない。
葵は一瞬だけ、視線を落とした。
「そういえば」
何気ない口調で、
彼女は続けた。
「あの時、星崎さん——」
言葉が、空中で止まる。
ハルは顔を上げた。
「……誰?」
葵は、きょとんとした表情を作る
喫茶アオハラを出る頃には、
空はすっかり夕色に染まっていた。
2人は並んで歩く。
距離は近いのに、会話はない。
石畳を踏む音が、交互に響くだけだ。
「さっきのさ」
ハルは、前を向いたまま口を開いた。
「……星崎さん、って言ってたよな」
葵の足音が、一拍だけ遅れる。
「あー……」
ほんの一瞬の間。
それから、いつもの調子で答えた。
「言い間違い。気にしないで」
笑い声は軽く、
それ以上の説明はなかった。
ハルは頷く。
追及しなかった。
それが正しい気がした。
角を曲がったところで、
ふと、胸の奥がざわつく。
——おかしい。
歩きながら、思考が遅れて追いつく。
自分は、
誰かの名字を聞くような会話を、
葵としただろうか。
名前なら、分かる。
呼び合う仲だった。
けれど、
名字を教えられた記憶はない。
忘れていたのではない。
思い出せないのとも違う。
——最初から、
そんな話をしていない。
夕暮れの中、
ハルは足を止める。
背中越しに、葵が振り返った。
何でもない顔。
いつも通りの、隣にいる人。
それでも、
胸の奥で、疑問が形を持つ。
——なぜ、その名前を知っている。
パレット 朔 @saku_aohara
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