-第4章-夜はもう
夜は、もう待ってくれない
日が沈む少し前、喫茶アオハラの窓にオレンジ色の光が差し込んでいた。
昼と夜の境界。
この街で、もっとも空気が張りつめる時間帯だ。
カップを拭く青原の手は、いつもと変わらず落ち着いている。
それが逆に、ハルには不自然に見えた。
「……今日も、鳴るよな」
誰に向けたわけでもない独り言。
やがてそれに応えるように、街全体にサイレンが走った。
低く、長く。
逃げ場を与えない音。
一般人は帰路を急ぎ、
シャッターが降り、
街は「夜を迎える準備」を終えていく。
「行くか」
火野火憐が短く言った。
その声には迷いがない。
けれど、どこか怒りに似た熱が混じっている。
水卜葵は無言で頷いた。
視線はハルではなく、床に落ちている。
その沈黙が、ハルの胸に小さな棘を残した。
――アマネが消えた夜も、
こんなふうに、何でもない顔をして日常は終わった。
「……俺が前に出る」
ハルがそう言うと、火憐が一瞬だけ目を細めた。
「遅れたら、置いてくから」
冗談とも本気とも取れない声。
だがハルは笑えなかった。
外に出た瞬間、空気が変わる。
夜は、生き物の領域だ。
街灯の下、影が不自然に揺れた。
「来る」
葵の声は小さかったが、確信があった。
次の瞬間、
闇の中から“それ”が現れる。
人の形に近い。
だが決定的に違う。
皮膚のようなものの下で、何かが蠢いている。
――黒。
「散開!」
ハルが叫ぶ。
だが一拍、遅い。
黒は迷わずハルに向かってきた。
理由は分からない。
けれどハルは、直感的に理解していた。
(俺を、見てる)
火憐の炎が夜を裂く。
葵の水がそれを追う。
だが連携は、噛み合わない。
ほんの一瞬、
葵の魔法が躊躇した。
その隙を、黒は逃さなかった。
衝撃。
視界が揺れ、地面に叩きつけられる。
――脳裏に、アマネの笑顔がよぎる。
「ハル!」
その名を呼んだ声が、
誰のものだったのかは分からない。
次の瞬間、
世界が、歪んだ。
音が遠ざかり、
色が剥がれ落ちる。
まるで誰かが、
この場から何かを切り取ったかのように。
そして夜は、何事もなかったかのように続いていく。
ただ一つだけ確かなのは――
もう、以前の夜には戻れないということだった。
_______
喫茶アオハラは、夜になると客が減る。
正確に言えば――夜を避ける人間が増える。
サイレンが鳴ったあとは、
この街に残るのは理由を持った者だけだ。
僕はカウンターの内側で、コーヒーを淹れていた。
豆の状態も、湯の温度も、
今夜は少しだけ狂っている。
「……やっぱり、来たか」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
カップの表面に、わずかな波紋。
遠くで、何かが“ズレた”のを感じた。
――想定より、少し早い。
扉が開く音。
一人分の足音だけが、店内に響いた。
「青原さん……」
火野火憐だった。
息が乱れ、制服の袖に、乾ききらない黒い染み。
「二人が……ハルと、葵が……」
僕は何も聞かずに、
彼女の前に水を置いた。
「まず、座りなさい」
声は落ち着いていたと思う。
少なくとも、彼女にはそう聞こえたはずだ。
火憐は椅子に崩れるように座り、
握った拳をほどけずにいる。
「消えたんです。急に。
黒が、逃げて……
意味が、分からなくて……」
意味が分からない。
それでいい。
分からないまま、怒る。
分からないまま、疑う。
それが、彼女の“色”だ。
「夜は、時々そういうことがある」
僕は嘘をついた。
半分だけ、本当の嘘だ。
「君のせいじゃない」
火憐は顔を上げた。
その目には、安堵よりも先に――怒りが浮かんでいる。
「……守れなかった」
そう言った瞬間、
彼女の背後の影が、一瞬だけ濃くなった。
――見えているよ。
でも、今は言わない。
「今日は、店を閉めよう」
僕はそう告げて、
シャッターを半分だけ下ろした。
完全には閉めない。
戻る者がいるかもしれないから。
火憐は気づいていない。
気づかなくていい。
ハルと葵は、まだ生きている。
ただ、ここにはいない。
それだけのことだ。
カウンター越しに、
僕は夜の街を見る。
黒は引いた。
だが、代わりに――
感情が、動き始めている。
「……少し、早かったかな」
誰にも届かない声で、そう零す。
それでも、流れは止めない。
止めてはいけない。
これは犠牲ではない。
選択だ。
信じているからこそ、
彼らを、夜へ送り出した。
喫茶アオハラの灯りは、
今夜も消えない。
迷う者が、
必ず戻ってくると知っているから。
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