-第3章-失われた名前
朝は、何事もなかったかのように訪れた。
神木ハルは目を覚まし、天井を見つめたまま動けずにいた。胸の奥に、うまく言葉にできない違和感が残っている。夢を見ていた気がする。誰かと話していた気もする。けれど、その誰かの輪郭だけが、指の隙間から零れ落ちるように思い出せなかった。
名前を呼ぼうとした。
だが、口を開いた瞬間、喉の奥で音が潰えた。
「……?」
理由は分からない。ただ、何かを失ったという感覚だけが、確かにそこにあった。
⸻
学校は、昨日と同じ姿をしていた。
騒がしい廊下、窓から差し込む光、黒板に残る消し跡。すべてがいつも通りなのに、ハルは教室に足を踏み入れた瞬間、息が詰まった。
――空白がある。
自分の隣の席。
そこに誰かが座っていたはずだ、という確信だけがある。
ノートも机もない。ただの空席。
なのに、視線を向けるたび、胸の奥がざわついた。
「なあ」
前の席のクラスメイトに声をかける。
「この席、前まで誰かいたよな?」
一瞬の間。
相手は怪訝そうに振り返った。
「は? ずっと空いてただろ。何言ってんだ?」
笑いながら、軽く否定される。
その言葉が、妙に冷たく感じた。
――否定されているのは、記憶じゃない。
――存在そのものだ。
⸻
休み時間、水卜葵に声をかけた。
彼女はいつも通り、静かに机に座っていた。
けれど、ハルの声を聞いた瞬間、ほんのわずかに肩が強張る。
「葵、昨日の夜……」
言いかけて、言葉を選ぶ。
「戦闘中、俺……誰かを思い出しかけた気がする」
名前は出てこない。
思い浮かぶのは、春の夕暮れのような感触だけだ。
葵の視線が、わずかに揺れた。
「……気のせいじゃない?」
声は、平坦だった。
「夜はさ、感情も記憶も狂いやすいから」
そう言って、話を切る。
だがハルは気づいてしまった。
覚えていない人間の反応ではないと。
⸻
放課後、三人は自然と喫茶アオハラに集まっていた。
カウンターの向こうで、青原がコーヒーを淹れている。
いつもと変わらない光景。変わらない距離感。
「今日は、学校どうだった?」
問いかけに、ハルはすぐに答えられなかった。
「……おかしいんだ」
絞り出すように言う。
「俺、何かを失くした。すごく大事な……誰かを」
名前が、出ない。
思い出そうとすると、頭の中が白くなる。
青原は、少しだけ目を細めた。
「失ったものを探すのは、悪いことじゃない」
その言葉に、葵の指がカップを強く握る。
「……探さなくていいものも、ある」
低く、押し殺した声。
その場に、短い沈黙が落ちた。
⸻
日が傾き、サイレンが鳴る。
夜が来る。
黒が現れる。
けれどハルにとって、最も恐ろしいのは敵ではなかった。
世界が、誰かを最初からいなかったことにしている。
その異常を、自分だけが感じているという事実。
そして――
それを知っていながら、黙っている者がいるということ。
ハルは、まだ知らない。
この欠落が、
やがて黒へと繋がり、
神へと至る道の、最初の一歩であることを。
_____
夜が来た。
サイレンが街を裂き、日常は一斉に息を潜める。
人の気配が消えた通りに、黒が滲み出すように現れ始めた。
「来るよ」
水卜葵の声は落ち着いている。
火野火憐は一歩前に出て、掌に火を灯した。
連携は、ぎこちないながらも成立していた。
だが、ハルの意識だけが、どこか浮ついている。
黒の動きが、ふと変わった。
人の形に近い。
腕のようなものを伸ばし、躊躇いなくこちらへ迫る。
「っ……!」
反射的に剣を振る。
斬撃が通った瞬間――
胸の奥が、強く引き攣れた。
見えた。
夜の屋上。
風に揺れる髪。
自分を見て、少し困ったように笑う――
「……アマネ……?」
声が、零れた。
自覚するより先に、名前が口から落ちた。
その瞬間、
世界が、僅かに軋んだ。
「――っ!」
葵が、はっきりと息を呑む。
火憐は一瞬動きを止め、ハルを振り返った。
「……今、何て?」
ハル自身が一番、驚いていた。
「……分からない」
「でも、確かに……」
その名前を呼んだ瞬間、
胸の奥が、焼けるように痛んだ。
懐かしさと、喪失と、
触れてはいけない何かが、一気に流れ込んでくる。
黒が、嗤うように歪んだ。
次の瞬間、連携が崩れる。
「ハル、集中して!」
葵の声は、僅かに震えていた。
戦闘は辛うじて終わる。
黒は霧散し、夜は再び沈黙を取り戻した。
⸻
喫茶アオハラ。
誰も、すぐには口を開かなかった。
カウンターの向こうで、青原が静かにカップを置く。
「……今、名前を呼んだね」
責めるでもなく、確認するように。
ハルは、俯いたまま答える。
「勝手に出てきた」
「でも……俺、あの名前を知ってる」
喉が、ひりつく。
「知ってるのに……思い出せない」
沈黙。
その中で、葵だけが、目を伏せていた。
――知っている。
――忘れていない。
――でも、言えない。
青原は、ゆっくりと息を吐いた。
「……それでも、探すかい?」
ハルは顔を上げる。
迷いは、もうなかった。
「探す」
「俺は……アマネを探す」
その言葉が、決定打だった。
水面下で、何かが確実に動き始める。
嫉妬は、まだ感情にならない。
嘘も、まだ言葉にならない。
けれど――
失われた名前は、確かに世界に戻った。
それが、
黒へ至る道の、最初の楔になるとも知らずに。
______
水卜葵みうら あおい
その名前が、夜に落ちた瞬間。
葵の中で、何かがはっきりと壊れた。
――やっぱり。
思っていたより、痛みは静かだった。
叫びたくなるほどじゃない。
ただ、胸の奥が冷えて、重く沈んでいく。
ハルは気づいていない。
自分が、どんな顔をしていたかも。
どんな声で、あの名前を呼んだかも。
アマネ。
呼ばれたのは、もういない人。
いないはずの人。
世界が、忘れることを選んだ人。
――それなのに。
ハルの中では、
あんなにも自然に、生きている。
(ずるい)
感情が、言葉になる前に沈める。
これは嫉妬じゃない。
ただの、違和感だ。
そう言い聞かせる。
葵は知っている。
ハルが誰を思って戦っているのか。
誰の名前を、心の奥にしまい続けているのか。
そして――
自分が、それを黙っている理由も。
口を開けば、壊れる。
言葉にすれば、戻れなくなる。
だから、黙る。
ハルが「探す」と言ったとき、
葵は止めなかった。
止められなかった。
胸の奥で、黒い感情が、
静かに、確かに、息を始めていた。
それがいつか
「嫉妬」という名前を持つことを、
まだ、葵は知らない。
_____
観測記録 No.██
対象世界において、
封鎖されていた識別情報が部分的に再接続された。
発生点:夜間戦闘。
媒体:神木ハル。
出力:固有名詞。
記憶遮断は継続中。
完全ではない。
水卜葵は沈黙を維持。
内部変化を確認。
感情定着条件、成立。
火野火憐は外向的反応を選択。
現段階では安定。
星崎アマネは計画通り、
観測範囲外へ移行。
介入は実行済み。
損失は発生した。
進行は許容範囲内。
回収は将来的に可能。
観測を継続する。
――記録終了
______
第三章 章間幕
――断章/世界の側の声――
夜は、すでに日常だった。
日暮れと同時に鳴るサイレンは、もはや警告ではない。
それは「境界」の合図であり、街が人間のものではなくなる時刻を告げる鐘だった。
外出禁止。
破れば命の保証はない。
それでも世界は回っている。
昼間の学校も、商店街も、喫茶店も――
どこか、奇妙なほど「普通」のまま残されている。
壊滅した都市の名は、いくつかが伏せられた。
報道は簡潔で、原因は曖昧に濁される。
夜間災害
原因不明の生物的被害
能力者の関与は確認されていない
確認されていない。
それは「いない」という意味ではない。
能力者は増えている。
黒も、増えている。
黒は夜に現れ、人を喰らい、成長する。
人の姿に近づいたものは、より危険だとされる。
――人形のような黒。
人ではないが、人に似たもの。
意思を持ち、言葉を理解し、恐怖を学ぶ存在。
それと接触した能力者が、どうなるのか。
その記録は、ほとんど残っていない。
残されたものも、断片的だ。
「名前を呼ばれた気がした」
「昔の記憶が抜け落ちた」
「誰かを探していたはずなのに、思い出せない」
失われるのは、命だけではない。
記憶も、関係も、名前も。
そして世界は、それを異常として扱わない。
忘却は、静かに進行する。
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