-第2章-水が濁る理由
――観測者のログ
黒は、一つではない。
観測を始めた当初、私はそれを単一の災厄だと認識していた。
しかし解体は失敗し、分解は意味を成さなかった。
黒には、核がある。
母因子と、子因子。
二つで一つではない。
増えることを前提とした構造だ。
母因子は、人を喰らう。
肉体ではない。
感情だ。
恐怖、憎悪、嫉妬、傲慢――
人が人であるために抱えるそれらを糧に、
母因子は子因子を生み出す。
子因子もまた、人を喰らう。
だが目的は違う。
成長だ。
人を喰らい、形を得て、
やがて人の姿を模倣する。
――人間には、ならない。
⸻
意思疎通は可能だ。
母因子と、その子因子の間に限って。
子因子同士が言葉を交わすことはない。
そこに横の繋がりは存在しない。
命令は、常に一方向。
母から、子へ。
ただ一つの例外を除いて。
⸻
母因子が命じる。
集えと。
散らばった核が、一つに束ねられる時。
黒は、単体として完成する。
より巨大に。
より知性を帯び。
より――人に近い姿で。
それは、災厄ではない。
選別だ。
⸻
私は、それを止めてられない。
止めるのは、私ではないと判断したからだ。
なぜなら
黒と同時に、
対抗する力もまた、世界に落ちたからだ。
力は、人に宿る。
黒を殺せば、力は育つ。
だが同時に、何かが摩耗していく。
感情か。
倫理か。
あるいは、人間性そのものか。
――まだ、結論は出ていない。
⸻
神木ハル。
彼は、その観測対象の一人だ。
そしてこれは、
彼が「何を失い」「何を背負うか」を記録する物語である。
_____
喫茶アオハラ・昼
昼の喫茶アオハラは、静かだった。
夜のために明かりを落とすこの町で、
昼に営業している店は少ない。
その分、ここには人が集まる。
カウンターに腰掛けた常連が、新聞を畳む。
「また夜の被害だってさ」
「減ったな」
「慣れたんだよ。半分も死ねば」
言葉は軽い。
誰も声を荒げない。
それが、今の世界の普通だった。
⸻
青原は、カウンターの内側でコーヒーを淹れている。
「“減った”じゃない。
“減らされた”だろ」
誰に言うでもなく、独り言のように。
常連は肩をすくめる。
「言い方の問題だよ。
今さら怒っても仕方ない」
「仕方ない、か」
青原はカップを置く。
音は、控えめだった。
⸻
入口のベルが鳴る。
神木ハルと、水卜葵、火野火憐。
三人とも制服姿だ。
「いらっしゃい」
青原は、いつも通り言った。
余計な感情は、乗せない。
⸻
ハルは、店内を見回す。
無意識に、空いている席を探している。
その癖は、まだ抜けていなかった。
葵が、それに気づいて視線を逸らす。
火憐は、何も言わない。
⸻
「今日もバイト?」
「はい」
ハルが答える。
「夜まで、ここにいればいいんですよね」
「そう。
サイレンが鳴るまでは“普通の学生”でいい」
その言葉に、皮肉はない。
ただの事実だ。
⸻
常連の一人が、三人を見る。
「若いのに大変だな」
「能力者だってよ」
声は、ひそひそと。
尊敬と警戒が、同じ比率で混じっている。
火憐が小さく舌打ちする。
葵が、止めるように袖を引く。
⸻
青原は、視線だけで制した。
「今日は、客だ」
それ以上は言わない。
守るとも、味方するとも。
ただ、線を引いただけ。
⸻
ハルは、カウンターに手をつく。
「……黒って」
言葉が、途中で止まる。
誰も、続きを促さない。
青原が、少しだけ視線を上げる。
「知りたいか」
「知らなきゃ、狩れない」
即答だった。
⸻
「黒は夜に出る」
「それは知ってます」
「なら次だ」
青原は、淡々と続ける。
「黒は、人を喰う。
正確には――感情をな」
常連たちは、聞こえないふりをする。
ここでは、そういうルールだ。
⸻
「だから、怒りっぽい奴の近くに出る」
火憐の指が、ぴくりと動く。
「嫉妬深い場所にもな」
葵の肩が、わずかに強張る。
「恐怖が濃い夜ほど、増える」
ハルは、黙って聞いている。
⸻
「倒せば、力は増す」
「……代わりに?」
ハルが問う。
青原は、一瞬だけ沈黙した。
「代わりに、
人でいるのが、少し難しくなる」
それだけだった。
店の奥で、時計が鳴る。
昼が、進んでいく。
世界は、今日も続いている。
失われたものを、
最初から無かったかのように。
_______
――水卜葵・火野火憐との出会い
最初に会ったのは、夜だった。
サイレンが鳴り終わり、
町が完全に息を潜めた時間。
ハルは一人で走っていた。
無謀だと分かっていても、止まれなかった。
黒を見つけたのは、路地裏だった。
子因子。
まだ小さいが、確実に人を喰っている。
刃を振るう前に、炎が落ちた。
轟音。
黒が焼かれ、影が暴れる。
「……なに?」
炎の向こうに、少女が立っていた。
「勝手に狩らないで」
赤い光を纏い、真っ直ぐに睨んでくる。
「それ、私の獲物」
火野火憐だった。
⸻
次の瞬間、水が走る。
炎を裂くような鋭い水流。
「喧嘩してる場合じゃないでしょ」
冷えた声。
もう一人の少女が、黒だけを見ていた。
水卜葵。
彼女の視線は、ハルを一切見ない。
⸻
三人は噛み合わないまま戦った。
炎は強引で、
水は正確で、
ハルは無茶だった。
連携はない。
だから、危なかった。
黒が膨らむ。
空気が歪み、
影が重なり始める。
「……集まる」
葵が息を呑む。
母因子の気配。
遅かった。
⸻
その時。
黒が、崩れた。
外から力が叩き込まれたように、
存在そのものが歪む。
説明できない圧。
時間が、一瞬だけ引き延ばされる。
三人の視界が、同時に白く弾けた。
⸻
翌日。
青原に呼ばれたのは、昼だった。
指定された場所は、喫茶アオハラ。
昨日の夜が嘘のような、静かな店内。
「……なんでここに?」
火憐が小さく呟く。
答えは返らない。
青原は、カウンターの内側でコーヒーを淹れていた。
「昨夜、妙な夜だった」
それだけ言って、三人を見る。
誰も否定しなかった。
⸻
「君たち、目的は違う」
青原の声は落ち着いている。
「でも、夜は同じだ」
沈黙。
「一人で死にたいなら、止めない」
「生きたいなら――ここで待て」
それが、始まりだった。
_______
黒は、商店街の外れに現れた。
子因子が三つ。
それぞれが別の人影を模している。
「数が多いな」
ハルが息を吐く。
「まとめて焼く」
火憐が一歩前に出た。
「待って」
葵が止める。
「母因子の気配がある。
下手に刺激すると――」
言い終わる前に、炎が走った。
⸻
「っ、火憐!」
「遅いんだよ!」
爆ぜる火花。
黒の一体が焼かれるが、
残りが一斉に散る。
人影が、歪む。
「……分裂する!」
葵が歯を食いしばる。
水が広がり、道を塞ぐ。
「右、任せて!」
返事はない。
火憐は、もう別の黒を追っていた。
⸻
ハルは、迷った。
追うべきか。
まとめるべきか。
一瞬の迷い。
その隙を、黒は逃さない。
影が伸び、
ハルの足を掴む。
「――っ!」
感情が、流れ込んでくる。
恐怖。
後悔。
名前を呼ぶ声。
――アマネ。
視界が、揺れる。
⸻
「ハル!」
葵の水が、影を断ち切る。
冷たい水が、感情を押し流す。
「集中して!」
「……悪い」
謝罪は、遅かった。
⸻
遠くで、爆音。
火憐が、黒を吹き飛ばす。
だが――
「っ……!」
彼女の肩に、影が絡みつく。
怒りが、膨れ上がる。
「離れろ!」
炎が、荒れる。
制御を失った火が、建物を舐める。
「やめて! それ以上は――」
葵の声は届かない。
⸻
空気が、変わった。
夜が、集まる。
残った黒が、動きを止める。
影が、引き寄せられていく。
「……命令」
葵の声が震える。
「母因子……!」
核が、集まり始める。
⸻
「撤退!」
葵が叫ぶ。
「今は無理!」
「ふざけるな!」
火憐が吠える。
「ここで引いたら――!」
「死ぬ!」
言葉が、夜を裂いた。
⸻
次の瞬間。
圧が、落ちた。
昨日と同じ。
外からの介入。
黒は、霧散する。
倒されたのではない。
消された。
⸻
しばらく、誰も動けなかった。
サイレンの残響だけが、耳に残る。
「……失敗だな」
火憐が言う。
誰も否定しない。
⸻
葵は、ハルを見る。
「無謀すぎる」
ハルは、視線を逸らす。
「……分かってる」
「分かってない」
冷たい声。
「それでも行くなら、
次は――ちゃんと聞いて」
それは、命令ではなかった。
願いに近い。
⸻
火憐が、背を向ける。
「次は、私が先に行く」
怒りが、まだ残っている。
夜は、終わった。
でも。
この失敗は、
確実に三人の中に残った。
消えない形で。
______
火野火憐・断片
――弟のこと
夜が明ける直前。
喫茶アオハラの裏口。
火憐は、一人で立っていた。
指先に、小さな火を灯す。
明かりにするほどでもない、
ただ「そこにある」と分かる程度の炎。
呼吸に合わせて、揺れる。
落ち着かせるための癖だった。
⸻
「……怒りすぎ」
背後から、葵の声。
火憐は振り返らない。
指を強く握り、炎を消す。
「うるさい」
短く、突き放す言い方。
⸻
少し遅れて、ハルが来た。
距離は取ったまま。
「……さっきの、危なかった」
「だから?」
火憐が初めて振り向く。
目が赤い。
怒りだけじゃない色。
⸻
「助けたでしょ」
「結果論だ」
葵が言う。
「次は、死ぬ」
「次は、私が殺す」
噛み合わない。
⸻
沈黙。
夜明け前の空気が、冷たい。
火憐は、空を見上げる。
「……弟がいた」
唐突だった。
二人とも、言葉を失う。
⸻
「能力者だった」
それだけで、十分だった。
この世界では。
⸻
「保護されるって言われた」
「管理だって」
声は平坦。
「資産になるって」
言葉が、静かに落ちる。
⸻
「……戻らなかった」
説明は、そこまで。
それ以上はいらない。
⸻
ハルが息を呑む。
葵は、視線を伏せる。
「怒ってるんじゃない」
火憐が言う。
「忘れないために、燃やしてる」
⸻
遠くで、鳥が鳴いた。
夜が、終わる。
⸻
「だから」
火憐は、二人を見る。
「中途半端な覚悟で来るな」
言葉は強い。
でもそれは、拒絶じゃない。
______
神木ハル・断片
――遅れと謝罪
朝。
喫茶アオハラの店内は、まだ静かだった。
開店前。
窓から差し込む光が、床に細長く伸びている。
ハルは、カウンターの内側で、エプロンを握っていた。
⸻
昨夜のことが、頭から離れない。
判断が遅れたこと。
声を荒げたこと。
そして――火憐の目。
⸻
「……火野」
呼び止める声は、小さかった。
火憐は足を止める。
振り返らない。
⸻
「昨日は……ごめん」
言葉を選ぶ余裕はなかった。
「俺、遅れた」
⸻
火憐は、しばらく黙っていた。
やがて、肩だけを動かす。
「分かってる」
怒気はない。
ただ、乾いた声。
⸻
「分かってる、けどさ」
火憐が言う。
「謝ってほしいわけじゃない」
⸻
ハルは、拳を握る。
「……俺は」
続ける言葉が、喉に引っかかる。
⸻
「守るって、言ってた」
声が震える。
「なのに、動けなかった」
⸻
火憐が、ようやく振り向く。
真っ直ぐな視線。
逃げ場がない。
⸻
「それでも来た」
火憐は言う。
「逃げなかった」
⸻
短い沈黙。
その隙間に、葵が入る。
「ハル」
優しい声。
「謝れたなら、それで一歩」
⸻
ハルは、うなずく。
でも、表情は晴れない。
⸻
「俺は」
決意するように言う。
「もっと前に出る」
⸻
誰に向けた言葉かは、分からない。
火憐か。
葵か。
それとも、自分自身か。
⸻
カウンターの奥から、青原の声。
「いい顔になってきたね」
いつの間にか、そこにいた。
⸻
「遅れる人間はね」
コーヒーを淹れながら、青原は言う。
「考えすぎる人間だ」
⸻
湯気の向こうで、笑う。
「悪くない」
⸻
ハルは、息を吐いた。
まだ足りない。
それでも、進める気がした。
______
水卜葵・断片
――気づいてしまったもの
ハルの謝罪を、葵は横で聞いていた。
言葉は、誠実だった。
遅れたこと。
守れなかったこと。
嘘はない。
⸻
でも。
⸻
ほんの一瞬。
本当に、刹那。
⸻
ハルの視線が、どこか遠くへ向いた。
⸻
(……今)
⸻
名前は呼ばれていない。
声にも、ならなかった。
それでも――
⸻
誰かを思い浮かべた顔だった。
⸻
葵は、気づいてしまう。
その表情を、知っていた。
⸻
(星崎……)
⸻
胸の奥が、わずかに軋む。
理由は、分からないふりをする。
⸻
葵は、笑った。
いつも通りの、柔らかい表情。
「ハル」
「無理しすぎないで」
⸻
その言葉は、正しかった。
でも――
⸻
その裏で、感情が静かに形を持つ。
名前のない、黒いもの。
⸻
(私を見て)
⸻
声には出さない。
願いとしても、認めない。
⸻
ただ、確かにそこにあった。
置き去りにされた気配。
⸻
カウンター越しに、青原が一瞬だけこちらを見る。
視線が合う。
⸻
葵は、すぐに目を逸らした。
何も気づかれていない。
――そう、思いたかった。
⸻
コーヒーの香りが、店内に広がる。
温かいはずなのに。
胸の奥は、冷えたままだった。
______
観測者ログ
――/非公開記録
その夜、街は静かだった。
黒の活動としては、特筆すべきものではない。
記録上は、よくある子因子との接触事故。
誰も死ななかった。
誰も失われていない。
――表向きは。
⸻
水卜葵は、無事に帰還した。
身体に異常はない。
魔力の循環も、正常範囲。
問題は、そこではない。
⸻
彼女は、触れてしまった。
ほんの一瞬。
拒絶も、受容も成立しない時間。
それで、十分だった。
⸻
黒は、外側から侵食しない。
感情の隙間に、居場所を作る。
そして今回は――
すでに、空席があった。
⸻
名を呼ばれなかった想い。
向けられなかった視線。
「ここにいるのに、選ばれない」という感覚。
嫉妬と呼ぶには、まだ早い。
だが、芽としては完成している。
⸻
僕は、それを知っていた。
知っていて、止めなかった。
⸻
導くことはできた。
切り離すことも、できた。
それでも僕は、
「まだ大丈夫だ」と判断した。
観測者として。
大人として。
⸻
結果は、明白だ。
⸻
水は、いずれ濁る。
濁った水は、
もう元の透明には戻らない。
浄化では足りない。
回収が、必要になる。
⸻
その役目を、
誰が負うのか。
――答えは、もう決まっている。
⸻
神木ハル。
君はまだ、知らない。
自分が、
どれほどの罪を回収することになるかを。
⸻
このログは、封鎖する。
誰にも読ませない。
……だからこそ、
これは僕の罪だ。
⸻
──完
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