パレット
朔
-第1章-忘却
夜が来る前に
プロローグ
これを読んでいる君達の世界には、夜があるかい?
夜は、唐突にやって来る。
日暮れと同時に、町中にサイレンが鳴り響く。
それは警告であり、合図だった。
――夜が来る。
人々は家に戻り、シャッターを下ろし、灯りを落とす。
夜に外を出歩く者はいない。
出歩いて、無事でいられた者はいないからだ。
黒と呼ばれる存在は、夜にしか現れない。
人を食い、感情を喰らい、成長する。
それでも、昼は平穏だった。
学校があり、店が開き、
人々は「普通の生活」を続けている。
それが、どれほど脆いかも知らずに。
⸻
放課後の屋上は、風が強かった。
フェンスに寄りかかり、神木ハルは空を見ていた。
夕焼けを眺める理由は、特にない。
「また一人で来てる」
声に振り返ると、星崎アマネがいた。
ハルの隣に住む、幼馴染。
「ここ、落ち着くんだよ」
「危ないこと考えてる人の言い訳」
「考えてないって」
アマネは、当たり前のように隣に立つ。
距離は近い。昔から変わらない。
「ねえ、ハル」
「なに」
「また無茶したでしょ」
ハルは答えない。
それで十分だった。
「どうして、自分のこと後回しにするの」
「別に……」
「別に、じゃない」
声は静かだった。
でも、逃げ場はない。
「あなた、壊れるよ」
「大げさだろ」
「大げさじゃない」
アマネは真っ直ぐに言った。
「ハルは、自分が壊れても進める人だから」
沈黙が落ちる。
「私がいなかったら、どうする?」
「……探すよ」
「どうして?」
「幼馴染だし。隣に住んでるし」
アマネは、少し困ったように笑った。
「そういうとこだよ」
夕焼けが、二人を同じ色に染める。
「私はね、あなたが戻ってこれる場所でいたい」
ハルは、その意味を深く考えなかった。
隣に彼女がいる限り、
自分はどこかで止まれる気がしていたから。
⸻
昼下がりの喫茶アオハラは、静かだった。
豆を挽く音と、湯を注ぐ音。
それだけが、店内を満たしている。
「今日も、夜は出るらしいね」
常連が新聞を畳みながら言った。
「さあ。出るときは出ますし、出ないときは出ません」
僕は、コーヒーをカップに注ぎながら答える。
「曖昧だな、マスターは」
「曖昧にしておいた方が、長生きしますから」
ベルが鳴る。
「いらっしゃい」
制服姿の少年が入ってきた。
「どうも」
神木ハルだ。
「いつもの?」
「お願いします」
少し遅れて、またベルが鳴る。
「こんにちはー」
火野火憐が、明るく手を振る。
「空いてる?」
「どうぞ」
「……こんにちは」
水卜葵は、控えめに頭を下げた。
「今日も夕方から?」
「うん、夜まで」
「……同じです」
それ以上、僕は聞かない。
バイトの事情に踏み込むほど、若いつもりはない。
三人は並んで座り、何気ない話を始める。
――止まれない少年。
――怒りを抱えた少女。
――感情を溜め込む少女。
それでも今は、ただのバイト仲間だ。
「マスター」
ハルが言う。
「今日も、いつも通り?」
「ええ」
僕は顔を上げる。
「戻れるつもりで行きなさい」
それ以上は言わない。
--ーー
サイレンが鳴った。
日暮れを知らせる、いつもの音。
それなのに、その夜の音はやけに遠く感じられた。
神木ハルは、玄関で靴を脱ぎかけたまま立ち止まる。
隣の家の灯りが、まだ点いていない。
「……遅くないか」
理由は分からない。
ただ、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
スマホが震える。
【アマネ】
『少しだけ、話せる?』
隣にいるはずの距離で、メッセージ。
嫌な予感が、確信に変わる。
【ハル】
『どこ』
返事は、少し遅れて届いた。
【アマネ】
『屋上』
息を呑む。
夜だ。
外出は禁止されている。
それを、アマネが破るはずがない。
それでも――。
ハルは上着を掴み、家を飛び出した。
⸻
屋上の扉は、わずかに開いていた。
風が吹き込み、フェンスが低く鳴る。
町の灯りは、もう落ちている。
「アマネ!」
呼ぶと、影が動いた。
「ごめん」
振り返ったアマネは、いつも通りだった。
いつも通りの声。
いつも通りの顔。
それが、何より怖かった。
「何してるんだよ! 夜だぞ!」
「分かってる」
「分かってないから、ここにいるんだろ」
アマネは、少しだけ困ったように笑う。
「ねえ、ハル」
「戻るぞ。今すぐ」
「もしさ」
遮るように言われて、ハルは言葉を失う。
「私が、帰れなくなったら」
「やめろって言ってるだろ!」
声が荒れる。
自分でも驚くほどだった。
「聞いて」
その一言が、妙に強かった。
風が止む。
音が、消える。
空気が、歪んだ。
「……ハル」
アマネの声が、わずかに震える。
影が、屋上の端に滲む。
夜が、形を持ち始める。
黒だった。
人のようで、人ではない。
視線を向けるだけで、心の奥が冷えていく。
「下がれ!」
ハルが駆け出す。
その瞬間、
足元の感覚が失われた。
世界が、ずれる。
「――っ!」
強い力で引き剥がされる感覚。
誰かに掴まれたわけでもないのに、身体が宙に浮く。
同時に、もう一つの気配。
「ハル!」
水卜葵の声。
彼女も、同じように引き離されていく。
視界が歪み、
屋上が遠ざかる。
「待て!」
叫ぶ。
手を伸ばす。
――届かない。
屋上に残るのは、ただ一人。
星崎アマネ。
彼女は、逃げなかった。
黒を見て、
それでもハルの方を見ていた。
「ハル」
その声は、もう届かない。
「大丈夫」
微笑った。
「ちゃんと、戻る場所だったよ」
影が、彼女の足元から這い上がる。
「やめろ!!」
叫びは、空間に吸い込まれる。
次の瞬間。
屋上から、
彼女の存在だけが消えた。
黒も、声も、痕跡もない。
夜の風が、何事もなかったように吹き戻る。
______
翌朝。
町は、静かだった。
サイレンのない朝。
通学路には人が戻り、店のシャッターが上がる。
世界は、何も失っていない顔をしていた。
ハルは、机に座ったまま動けずにいた。
隣の席が、空いている。
それだけだ。
教師は出欠を取る。
「神木」
「……はい」
次。
次。
一拍、空くはずの場所で、名前は呼ばれない。
何も、言われない。
ハルは、手を挙げかけて、止めた。
代わりに、後ろの席から声がする。
「先生、そこ空席ですよ」
「ああ、そうだな。転校だったか?」
教室が、軽く笑う。
誰も、違和感を覚えていない。
ハルの胸だけが、強く軋む。
⸻
昼休み。
ハルは校内を歩き回る。
「アマ――」
名前が、途中で詰まる。
呼び方が、分からない。
喉に引っかかる感覚だけが残る。
友人を捕まえる。
「なあ、隣に住んでた――」
「誰?」
「……」
説明できない。
顔は思い出せる。
声も、仕草も、笑い方も。
なのに、それを指す言葉がない。
「気持ち悪いな」
自分の記憶が、穴だらけだと知る。
⸻
放課後。
喫茶アオハラ。
青原は、いつも通りカウンターを拭いている。
「いらっしゃい」
それだけ。
何も、聞かれない。
ハルは、耐えきれず口を開く。
「……アマネって、知ってますか」
青原の手が、一瞬止まる。
だが、すぐに動き出す。
「さあ。よくある名前だね」
それ以上は、言わない。
嘘だ、と分かるほどの違和感もない。
ただ、何かを伏せているだけ。
⸻
夜。
葵が言った。
「……ハル」
「分かってる」
それだけで、通じた。
二人とも、同じものを見ている。
同じ“空白”を、抱えている。
「みんな、忘れてる。本当にいた人なの?」
「いたさ、いなくなった理由は残ってる」
窓の外で、サイレンが鳴る。
夜が来る。
ハルは、強く拳を握る。
「俺は、探す」
言葉にすると、少しだけ輪郭が戻る。
「名前が消えても」
「世界が否定しても」
葵が、視線を逸らす。
その一瞬の沈黙を、ハルは見逃さなかった。
――後になって思えば。
この時すでに、
彼女は“知っていた”。
思い出せないのではなく、
思い出さないという選択をしていたことを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます