第8話:逆流する負債
ガロウが死に、主を失った「肉の銀行」には、不気味なほどの静寂が満ちていた。
培養槽の中で浮かぶ数千の「00:00:00」たちは、自分たちを縛っていた管理者が消滅したことなど知る由もなく、ただ虚ろな瞳で緑色の溶液の中を揺蕩っている。
シルスは、血に濡れたままの中枢制御盤の前に立ち、複雑な魔導回路を操作していた。
「……シルス。この人たちを、助けないの?」
アリシアが震える声で問う。彼女の指先は、ガロウを葬った銀糸の反動で赤く腫れ上がり、まだ微かに痙攣していた。
「助ける? 定義が曖昧だな」
シルスは手を止めずに答える。その横顔には、慈悲も、勝利の感慨すらもない。
「彼らは既に生体部品だ。ここから出せば、その瞬間に肉体が崩壊して死ぬ。……それに、彼らにはまだ働いてもらわなければならない」
「働くって……これ以上、何をさせる気なの?」
「ダムの役割だ」
シルスがレバーを引き下ろすと、施設全体の駆動音が重低音へと変化した。
これまで王都から送られてきた「呪い」を濾過し、綺麗な魔力として送り返していたポンプが逆回転を始める。
「王都から流れてくる汚染は止まらない。だが、排出口であるこの施設は、今から受け入れを拒否する。行き場を失った因果の負債は、一度この培養槽に貯蓄され……限界を超えた瞬間、倍の圧力で王都へ逆流する」
シルスは、培養槽に繋がれた人々の苦悶の表情を、ただの計器の数値として確認した。
「彼らには、そのための防波堤になってもらう。……残酷だと思うか? だが、これが彼らが崇める教会のシステムが作った現実だ。僕はただ、水路の向きを変えたに過ぎない」
アリシアは言葉を失い、自分の手を見つめた。
ガロウを殺せば救われると思っていた。だが、現実は何も綺麗にはならなかった。ただ、より巨大で、より冷たい絶望の歯車の一部に、自分自身が組み込まれたことを自覚させられただけだった。
「……空虚か、アリシア」
シルスの声が、図星を突く。
「復讐は心の傷を癒やしはしない。それは単なる、未払いの帳簿をゼロに戻す事務作業だ。……君はもう被害者じゃない。世界を壊すための、僕の共犯者だ」
アリシアは唇を噛み締め、そして、ゆっくりと頷いた。その瞳から、迷いという名の甘さが消えていく。
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王都の大聖堂、最奥の執務室。
そこでは、教会の枢機卿たちが、一枚の報告書を囲んで沈痛な面持ちで座っていた。だが、彼らが憂いているのは「ガロウの死」でも「人命」でもなかった。
「……下層区の第7処理施設、応答なし。今月の『汚染処理ノルマ』の達成率が40%を下回っています」
「困るな。これでは上層区の『聖域濃度』が維持できない。不動産価値が暴落してしまうぞ」
「代替の管理者を送らねば。……ガロウのような『使い捨て』ではなく、もっと効率的に、ゴミをゴミとして処理できる人材を」
老人たちは、まるで詰まったトイレの配管修理でも相談するように、冷徹に損益を計算していた。彼らにとって王都の平和とは、貸借対照表の数字合わせに過ぎない。
その時、部屋の扉が開かれた。
入ってきたのは、足音すら立てない長身の男だった。身に纏うのは戦闘用に仕立てられた漆黒の法衣。その胸には、天秤を模した冷たい銀の記章が輝いている。
「……騒がしいですね。計算が狂う」
男の声は、まるで合成音声のように平坦だった。
枢機卿たちが一斉に息を呑む。
「き、貴様は……『監査官』ヴァルダス! なぜここに……」
「ガロウという部品が壊れたのでしょう? ならば、早急に代替品を用意し、エラーの原因を排除しなければなりません」
ヴァルダスと呼ばれた男は、眼鏡の奥の瞳を冷ややかに光らせた。
彼には「肉体」としての生々しさが欠けていた。皮膚は陶器のように白く、瞬きの回数すら規則的だ。
「私が降ります。……ネズミが配線を齧った程度なら修復できますが、もしシステムそのものを理解している『同業者』が入り込んだのなら……私が直接、削除するしかありませんから」
ヴァルダスは自身の腕を軽く叩いた。まるで、着ている服の埃を払うかのように、自分の肉体というハードウェアを確認する動作。
「この機体の損耗率はまだ些少。……十分に稼働可能です」
因果の不渡り ヨシ @yoshiosan
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