第6話:虚無の監査



 下層区のさらに下、地図から抹消された垂直の穴を、シルスとアリシアは降りていく。

 そこは、音も、色も、時間さえもが曖昧になる「第四層」。

 世界が現在の形に構築される過程で切り捨てられた、不要な歴史や可能性が堆積する、巨大なゴミ捨て場だった。


「……気持ち悪い。空気が、肌にまとわりつくみたい」


 アリシアが自身の二の腕を抱いて震える。

 彼女の指先に縫い付けられた銀糸が、目に見えない「拒絶反応」によって、チリチリと火花を散らしていた。


「呼吸を浅くしろ。ここは教会の脚本システムが及ばない場所だ。正規の存在証明を持たない僕たちが長く留まれば、因果ごと『なかったこと』にされる」


 シルスは懐中時計を確認するが、針はデタラメに回転している。

 彼は足元の灰――かつて何かであったモノの残骸を踏み砕き、目的の場所へと進んだ。


 灰色の霧の奥。

 そこに、巨大な石柱に貫かれた、一本の「墓標」があった。


「……嘘。これ、勇者の鎧……?」


 アリシアが息を呑む。

 石柱に磔にされていたのは、錆びついた聖剣と、肉体に食い込んだ機械部品が癒着した、異形の骸だった。その姿は、現在王都で称えられている勇者アルリックの装備と、不気味なほど酷似していた。


「……ああ。教会の脚本に選ばれ、そして耐えきれずに壊れた、過去の勇者の成れの果てだ」


 シルスは冷徹な瞳で、その骸を見上げる。

 胸部には心臓がなく、代わりに鈍く明滅する金属塊――『因果共鳴核カオス・コア』が埋め込まれている。


「彼は世界を救えなかったんじゃない。救いすぎたんだ。……膨れ上がった世界の負債...呪いを一手に引き受け、処理しきれずにバグを吐き出した。教会は彼をここに捨て、システムを『初期化』して、次の勇者を用意した」


「そんな……。じゃあ、アルリック様も、いつかこうなるの?」


「そう遠くない未来にな。……だが、今は感傷に浸っている暇はない」


 シルスは躊躇なく、骸の胸に手を差し込んだ。

 目的は、この『因果共鳴核』だ。これは古代の魔導装置であり、同時に、教会が隠蔽した「システムの失敗履歴エラーログ」そのものだ。


「……ぐ、ぅぁぁぁ……っ!!」


 指先が核に触れた瞬間、シルスの膝が折れた。

 物理的な重さではない。核に記録された数百年分の「絶望」「悲鳴」「裏切りの記憶」が、奔流となってシルスの脳内へ逆流してきたのだ。


「シルス!?」


「……来るな! 手を出すな!」


 シルスが叫ぶ。彼の右目からは、赤い鮮血ではなく、ドロドロとした黒い涙が溢れ出していた。

 視界がノイズで埋め尽くされ、精神が摩耗していく。だが、彼は手を離さない。この「毒」こそが、ガロウの無敵を崩す唯一の鍵だ。


「……ハハ、ひどいな……。これほどの怨嗟が、未処理のままアーカイブされているとは……」


 シルスは、震える手で核を強制的に引き抜き、魔術的に封印パッケージングした。

 それは新しい武器などではない。

 教会のシステムに対して、「お前たちの管理は最初から破綻している」と突きつけるための、最悪の告発状だ。


「アリシア。……銀糸を出せ。この核のデータを、君の糸に焼き付ける」


「でも、あなたの目が……血が……!」


「構うな。……ガロウの『聖域の加護』は、彼を『守るべき対象』として定義している。だが、この核に残された『古い管理者権限ルート・キー』を打ち込めば、一瞬だけシステムを騙せる」


 シルスは、黒く濁った核をアリシアの銀糸に接触させた。

 銀糸が黒く変色し、アリシアの腕に「誰かの最期の悲鳴」が伝播する。


「……っ、うぅ……!」


「耐えろ。これが、世界を殺すための『毒』の重さだ」


 作業を終えた二人は、満身創痍で灰色の荒野を後にした。

 シルスの右目は光を失い、アリシアの手は震え続けている。

 だが、その手には、ガロウという無敵の城塞を内側から腐らせるための、致死の針が握られていた。


「……準備は整った。ガロウの『無敵』の賞味期限は、あと数時間だ」


 地上へと続く暗い穴を見上げ、シルスは血に濡れた唇で、獰猛に微笑んだ。

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