第3話:認識の剥離
深夜、人里離れた廃屋。
外を吹き荒れる寒風よりも、室内を支配する沈黙の方が、刺すような鋭利さを帯びていた。
リアン・ヴァンクロフトは、自ら調合した藍色の薬液を、一滴の躊躇もなく煽った。
数秒後、内臓が煮え立つような激痛が彼を襲った。
神経可塑性を極限まで高める劇薬。それは脳の防衛本能を麻痺させ、神経細胞同士の結合を、一時的に溶けやすい粘土のように作り変える。
視界が真っ赤に染まり、毛細血管が次々と弾けていく。
鼻と耳から温かい血が零れたが、リアンは震える指先を自身のこめかみに添えた。
(……座標、固定。海馬、扁桃体周辺。言語認識領域へ。介入を開始する)
自身の魔力を、銀の極細針のように細く、鋭く絞り込む。
それを、自身の脳の深層部へと直接突き刺した。
薬によって剥き出しになった痛覚が、脳内を土足で踏み荒らされるような耐え難い不快感を克明に伝えてくる。
彼は魔力の針を操作し、「リアン」という音に反応する神経回路を特定した。
かつてアルリックに名前を呼ばれて微笑んだ記憶。魔導院で称賛を浴びた誇り。エレーナの慈愛に満ちた眼差し。
それらすべてを「リアン・ヴェルガ」という個体に繋ぎ止める鎖――そのシナプスを、魔力の熱によって一本ずつ、丁寧に焼き切っていく。
(……不要だ。これまでの繋がりも、感情も、すべてはこの世界という装置が僕を縛るための楔に過ぎない)
脳内で火花が散り、意識が遠のきかける。
かつての「自分」が死んでいく。その喪失感を、彼は冷徹な計算機のような思考で塗りつぶした。
代わりに、新しい回路を構築する。
「シルス」
沈黙、あるいは記録を意味するその響きを、呼吸や心拍と同じ、生存に不可欠な優先信号として脊髄に溶接した。
「……あ、ああああ……っ!!」
絶叫が、血に濡れた喉を震わせた。
自己の核を物理的に繋ぎ変える。魂を一度粉砕し、別の形に固め直すに等しい冒涜的な行為。
全身を走る痙攣。白濁する視界の中で、彼は数千回、数万回と新しい名を反芻した。
「私は存在しない(シレオ)」「私は記述する者(シルス)」
物理的処置と、狂気的な自己暗示。その二重の鎖が、脳内の地図を完全に書き換えた。
夜が明ける頃、床に溜まった血溜まりの中で、男がゆっくりと身を起こした。
(……この街、リュミエールを選んだのは、ここが王国のゴミ捨て場だからだ。そして、僕が参謀時代に仕組んだ政争の結果、ある一級の素材がここに廃棄されるタイムリミットも近い)
シルスは窓の外を見やり、路地裏の奥、世界が用意した生贄の祭壇を静かに観測した。
瞳には、一筋の湿り気も残っていない。
「……リアン」
自ら旧名を呟いてみる。何の感情も湧かなかった。
それは見知らぬ他者の、あるいは道端に転がる石ころを指す音と変わらぬ、無機質なノイズ。
「シルス」
新しい名を呼ぶ。
その瞬間、全身の神経が鋭利に反応し、末端まで凍てついた理知が駆け巡った。
シレオ(私は沈黙する)。
シルス(私は記述する)。
自己という名の呪縛を解剖し終えた男は、白銀の闇へと消えていった。
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